「大友宗麟」の家臣とは?わかりやすい解説とクイズ問題
大友宗麟の家臣である「豊州三老」と称される戸次鑑連(立花道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理の3人は大友宗麟を支える基盤となりました。
この3人は大友宗麟の安定と豊後国内の平和維持に大きく貢献しました。
戸次鑑連は大友軍の中でも特に勇猛な武将として名を馳せており、若い時に雷に打たれて下半身不随になりながらも、戦場では駕籠(竹または木製の座席を1本の棒に吊し、前後から人が担いで運ぶ乗物)に乗って指揮を執り、軍勢の士気を高めたとされています。
特に大友宗麟が島津氏に敗れてからは、大友領国の危機を感じ取り、1580年には豊後国大野・直入郡の武将13人に向けて、領国支配の立て直しを呼び掛ける檄文(自分の主張や考えを強く訴える文章)を発しています。
一方、臼杵鑑速と吉弘鑑理も大友宗麟を支える重要な役割を担い、豊後国の治安維持や政策実行において中心的な役割を果たしました。
これらの家臣たちの協力と努力により、大友宗麟の豊後国の統治時代が充実したものとなり、豊後国内の安心安全を保つことができました。
大友宗麟には加判衆と呼ばれる重臣が集合し物事を決める制度も存在し、宗麟の政策や命令が重臣たちの協議を経て決定されることが一般的でした。
大友宗麟の家臣クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
「豊州三老」と呼ばれていた3人の家臣は臼杵鑑速、吉弘鑑理、あと1人はだれでしょうか?
- A. 戸次鑑連
- B. 竹中半兵衛
- C. 黒田官兵衛
- D. 真田昌幸
【穴埋めクイズ問題】
大友宗麟の統治を支えたのは、「( ① )」と称される戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理の三人です。この三人は宗麟の政権の安定と豊後国の平和を維持するための役割を果たしました。鑑連は雷に打たれて下半身不随になりながらも、戦場での( ② )に乗った指揮で知られ、特に島津氏に敗れた後の1580年には、大友領国の立て直しを目指し豊後国大野・直入郡の武将13人に檄文を発しました。鑑速と鑑理も治安維持や( ③ )の実行において宗麟の信頼を得て活躍しました。宗麟の政策や命令は加判衆と呼ばれる重臣たちの合議によって決定され、大友氏の領国支配の基盤となっていました。
( )のことばを答えてみよう!
[…] 大友宗麟(大友義鎮) […]