「浅井長政」と朝倉義景の関係とは?わかりやすい解説とクイズ問題


浅井長政と朝倉義景の関係は、複雑な歴史的背景の中で形成されました。
浅井氏は、もともと越前の朝倉氏による援助を受けて家を保ってきた経緯がありました。
このため、浅井氏内では朝倉氏に対する恩義を感じており、代を重ねてもその関係を重視し続けていました。
しかし、浅井長政が家督を継ぐと、状況は徐々に変化していきます。
浅井長政は、朝倉氏との外交関係をそれほど重視せずに勢力拡大を目指していました。
このため、織田信長との同盟を考え始めるのですが、これは朝倉氏との関係に亀裂を生じさせることになりました。
そして、浅井長政は織田信長に対し、朝倉氏と戦わないことを条件に同盟を締結します。
この条件は、家中の意向を反映したものであり、朝倉氏との関係をなおざりにはできない浅井氏の立場をあらわしています。
しかし、織田信長は上洛(上洛:京都に行くこと)の後、朝倉義景に対しても勢力の拡大を図りました。
1570年、織田信長が朝倉義景を攻めた際、浅井長政は悩ましい立場に追い込まれます。
最終的に、浅井長政は古くからの関係を優先し、織田信長との同盟を裏切って朝倉義景への加勢を決断しました。
これが「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎の退き口:金ヶ崎の戦いで発生した織田信長の退去戦)につながり、織田信長は危機的な状況に陥ります。
しかしながら、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)の活躍により、織田信長はなんとか危機を脱します。
その後、浅井氏と朝倉氏は近江国での姉川の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、この敗北は両家にとって致命的なものとなりました。
結果的に浅井長政と朝倉義景の関係は、最終的に両家の滅亡へと繋がりました。
朝倉義景は一乗谷の戦いで自害し、浅井長政も小谷城での包囲の末に自害しました。
浅井長政と朝倉義景の関係クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
1570年に浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激戦を繰り広げた戦いは何でしょうか?

- A. 小谷城の戦い
- B. 姉川の戦い
- C. 一乗谷城の戦い
- D. 三方々原の戦い
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【穴埋めクイズ問題】
浅井長政と朝倉義景の関係は、当初の朝倉氏による支援とその( ① )に基づき始まりました。しかし、長政が家督を継ぐと、勢力拡大の野望と( ② )との同盟を求める中で、その関係は徐々に薄れていきました。1570年に( ② )が義景を攻めると、長政は難しい選択を迫られ、結果として( ② )との同盟を裏切り、義景への支援を選びました。この決断は「金ヶ崎の退き口」へと繋がり、( ② )を一時的に窮地に追い込みましたが、最終的には浅井氏と朝倉氏の大敗という形で終わります。近江国での( ③ )の戦いに続き、一乗谷の戦いと小谷城の包囲は、長政と義景の関係を終焉へと導き、両家の滅亡を決定づけました。
( )のことばを答えてみよう!
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