「真田幸村(真田信繁)」は何をした人?したことを簡単に解説
真田幸村、本名真田信繁は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
真田幸村は信濃国(現在の長野県)の真田家の次男として生まれました。
真田家はもともと武田信玄の家臣でしたが、武田家が織田信長によって滅ぼされた後、一時的に織田家に従います。
織田信長による天下統一の動きの中で、真田幸村は人質として他の大名家に出されます。最初は信長の家臣・滝川一益のもとへ、そして本能寺の変後は上杉景勝のもとへと人質として送られました。
その後、豊臣秀吉の天下統一の動きに伴い、真田家も豊臣家に仕えることになります。
真田幸村の有名な戦は、1600年に起きた関ヶ原の戦いでの活躍です。
真田幸村は西軍に属し、幸村の兄・真田信之は東軍に属していました。これは真田家は戦後も生き残るための戦略として、兄弟が敵対する形をとりました。
関ヶ原の戦い全体としては、東軍が優位に立ち、最終的には西軍が敗れることとなりました。
この戦いでの敗北により、真田幸村を含む西軍の多くの武将は厳しい状況に直面することになりました。
その後、真田幸村は1614年から1615年にかけて起こった大坂の陣で再び活躍します。豊臣家の滅亡を阻止するため、幸村は豊臣側で徳川家康に対抗します。
大坂冬の陣で、真田幸村が設計したとされる真田丸という堅固な防御拠点は、徳川軍に大きな損害を与え、幸村の戦術家としての評価を確固たるものにしました。
大坂夏の陣では、真田幸村は徳川家康の本陣に迫るほどの奮闘を見せました。しかしその激戦の末、豊臣家は敗北し、幸村は戦死しました。
「真田幸村」の年表(生涯)
年代 | 出来事 | 詳細説明 |
---|---|---|
1567年(諸説あり) | 誕生 | 信濃国小県郡で真田昌幸と山手殿の間に生まれる。生まれ年には諸説ある。 |
1582年 | 織田信長に臣従 | 武田家滅亡後、真田家は織田信長に臣従。真田幸村は人質として滝川一益の下に送られる。 |
1582年 | 本能寺の変 | 本能寺の変で織田信長が死去後、真田家は上杉景勝に帰属し、真田幸村は越後で人質生活を送る。 |
1585年 | 第一次上田合戦 | 真田家が徳川軍を撃退。真田幸村は参戦していないが、真田家の名声が高める。 |
1586年 | 豊臣秀吉に臣従 | 真田幸村は豊臣秀吉に臣従し、大阪で人質生活を送り始める。 |
1592年 | 文禄の役 | 真田幸村は父昌幸、兄信之と共に朝鮮へ出兵。 |
1600年 | 関ヶ原の戦い | 西軍に加わり、上田城で徳川秀忠の軍を足止めする戦術的勝利を収める。 |
1614年 | 大阪冬の陣 | 大阪城に入城し、真田丸を築く。 |
1615年 | 大阪夏の陣 | 徳川家康の本陣に迫るが、四天王寺の安居神社で戦死。49歳であった。 |
「真田幸村」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題
真田幸村(真田信繁)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
真田昌幸の次男として生まれ、真田一族の中でも特に目立つ活躍を見せた人物です。
真田幸村の生涯の最初の大きな出来事として、真田家は上杉家や豊臣家への人質要員として幸村を送り込み、家族は大名間の力の均衡を保つために、その立場を利用しました。
信州上田合戦では、宿敵である徳川家と二度にわたり戦い、数に劣る真田軍は奇襲戦法を駆使して徳川軍を翻弄しました。
真田幸村自身は、父と共に第二次上田合戦に参加し、兄・真田信幸と戦うことになりましたが、直接の対決は避けました。
その後、関ヶ原の戦いで西軍の一員として参戦したものの、西軍が敗れると、真田幸村は紀州九度山に流罪(流罪:刑罰の一つで、罪人を辺地や離れ島に送ること)となりました。
そして15年間の静かな生活を送ります。
その後、大坂の陣では、真田幸村は豊臣家のために再び武器を取り、特に大坂夏の陣では、徳川家康の本陣に三度突撃し、一時は家康に自害を決意させるほど追い込みました。
しかし、最終的には数に劣る真田軍は勢いを削がれ、真田幸村も戦場で命を落としました。
真田幸村の武勇は多くの人々に称賛され、敵将である島津忠恒からは「天晴れ真田、日本一の兵」と評されるほどです。
しかし、真田幸村の名声には、武勇だけではなく、幸村の困難な状況の中で見せた機智(機智:その場に応じてとっさに適切な対応や発言ができるような鋭い才知)や、一族や徳川家康との関わりも深く関係しています。
真田幸村はどんな人物クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
真田幸村は大名間の力の均衡を保つために、どの家の人質要員として送り込まれたでしょうか?
- A. 織田家
- B. 徳川家
- C. 豊臣家
- D. 武田家
【穴埋めクイズ問題】
真田幸村は( ① )の次男として戦国時代末期から安土桃山時代に活躍した武将です。上杉家や豊臣家への人質要員として送られるなど、若年期から真田家の政略に関わりました。信州上田合戦で徳川家と対峙し、少数精鋭の真田軍で徳川軍を翻弄しました。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後は( ② )に流罪となりました。大坂の陣では豊臣家のために立ち上がり、特に( ③ )で徳川家康の本陣に三度突撃するなど、武勇により「天晴れ真田、日本一の兵」と称されるまででした。しかし、最終的には戦場で命を落としました。
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