「大友宗麟」は何をした人?したことを簡単に解説
大友宗麟(大友義鎮)は戦国時代の豊後国(現在の大分県)を治めた大名で、1530年に豊後で生まれました。宗麟は大友家の21代目当主として、幼名塩法師丸、のちに大友義鎮と名乗りました。
大友宗麟は、父・大友義鑑の死後、一族内の紛争「二階崩れの変」を経て、大友家の当主となりました。
大友宗麟は戦略的な結婚を利用し、足利将軍家との繋がりを強化、また、周防の大内氏との和解を成し遂げることで、一時的な平和をもたらしました。
大友宗麟は熱心なキリスト教信者でも知られています。
キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルを受け入れ、キリスト教の布教を許可しました。
またこの動きは、南蛮貿易を通じた西洋の鉄砲や文化の導入を促しました。
大友宗麟の治世の中期には、筑前の秋月氏や肥後の菊池氏など、九州内の他の大名との戦いが続きました。
これらの戦いで、大友家は勝利や敗北を繰り返しながらも、大友宗麟の巧妙な外交政策により、徐々にその勢力を拡大していきました。
しかし、毛利元就との対立は、大友宗麟はとって大きな障壁となりました。
毛利氏は、大内氏を滅ぼし、次第に九州にも勢力を拡大してきました。
北九州での勢力拡大を目指す中、毛利氏や島津氏との戦いは避けられず、特に耳川の戦いでの敗北は大友家にとって大きな打撃でした。
この戦いでの敗北は、大友家の勢力と影響力の衰退を加速させ、大友宗麟自身の政治的立場も弱めました。
大友宗麟は豊臣秀吉に接近し、九州征伐の支援を受けることで、一時は危機を脱しました。
しかし、最終的には病に倒れ、1587年に豊後国津久見で亡くなりました。死因はチフスが有力とされています。
「大友宗麟」の年表(生涯)
年代 | 詳細な説明 |
---|---|
1530年 | 大友宗麟は、豊後国(現在の大分県)の府内で大友義鑑の長男として生まれる。 |
1540年 | 大友宗麟は元服し、その際に「義鎮」と名乗るようになる。これは室町幕府の将軍から偏諱(一字)を賜る習慣に基づいている。 |
1550年 | 二階崩れの変によって大友家の家督を継ぐ。 |
1551年 | フランシスコ・ザビエルを豊後に招き、キリスト教の布教を許可する。これにより、大友領内でキリスト教が広まり始める。 |
1559年 | 筑前、筑後、豊前の守護職に任じられ、さらに九州探題にも任じられる。これにより、宗麟の九州における権力が強化される。 |
1562年 | 出家して「瑞峯宗麟」と号する。これは、大友宗麟が政治から距離を置き始めたことを示しています。 |
1570年 | 今山の戦いで大友宗麟は惨敗する。この戦いで宗麟の弟、大友親貞が討死する。 |
1573年 | 家督を嫡男の大友義統に譲り、自身は丹生島城に移る。 |
1578年 | 日向侵攻中に大友軍は耳川の戦いで島津軍に惨敗する。 |
1584年 | 沖田畷の戦いで島津軍が大勝する。この戦いにより、島津義久が九州南部での勢力を拡大し始める。 |
1586年 | 岩屋城で高橋紹運ら城兵が玉砕する。この戦いで大友氏は大きな打撃を受ける。 |
1587年 | 豊臣秀吉による九州征伐が行われる。大友宗麟はこの年に病死する。 |
「大友宗麟」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題
大友宗麟(大友義鎮)は戦国時代の終わりに豊後国(現在の大分県)を治めた大名で、キリシタン大名としても知られています。
幼名は塩法師丸で、成長するにつれて大友義鎮、さらには休庵宗麟と名を変えました。
一色義清の娘を正室とし、その他にも複数の女性と結婚または関係を持っていました。
大友宗麟は、もともと禅宗を信仰していましたが、フランシスコ・ザビエルとの出会いをきっかけにキリスト教を受け入れ、以降、南蛮文化を積極的に取り入れました。
日本で初めての総合病院を設立した、ルイス・デ・アルメルダに病院建設の土地を供与したり、西洋医学の導入に努めました。
大友宗麟は文化面でも注目される人物で、書画や茶道に深い学を持ち、狩野永徳を招いて障壁画を制作させるなどの活動をしました。
さらに、外国との貿易を積極的に行い、経済面でもその才能を発揮しました。
しかし、軍事面では苦労が絶えず、北九州を制圧したものの、後に肥前国の龍造寺隆信や島津軍に敗れることもありました。
特に耳川の戦いでの敗北は致命的で、その後の戸次川の戦いでは島津義久によってほぼ滅亡に追い込まれましたが、最終的に豊臣秀吉の九州征伐に従軍し、一命を取り留めました。
大友宗麟は九州にキリシタンの国を築こうとしたほど熱心な信仰心を持っていましたが、豊後国で病死するまでその夢は叶いませんでした。
大友宗麟はどんな人物クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
大友宗麟は仏教を信仰していましたが、のちに他の宗教を信仰するようになります。なんの宗教でしょうか?
- A. 仏教
- B. イスラム教
- C. キリスト教
- D. インド宗教
【穴埋めクイズ問題】
大友宗麟は戦国時代末期に豊後国(現在の大分県)を治めた武将であり、キリシタン大名としての顔も持ちます。( ① )との出会いによりキリスト教を受け入れ、その後、南蛮文化や西洋医学の導入に力を注ぎました。日本初の総合( ② )の設立に協力したり、書画、茶道における深い学識、狩野永徳を招いての障壁画制作など、文化人としての活動も盛んに行いました。経済面では外国との( ③ )を推進し、北九州を制圧するなどの軍事的成功もありましたが、肥前国の龍造寺隆信や島津軍に敗れるなど苦難も多かったです。耳川の戦いでの大敗後、島津義久によって滅亡寸前まで追い込まれましたが、豊臣秀吉の九州征伐に従軍してなんとか生き延びました。九州にキリシタンの国を築こうとするほど、熱心な信仰心を持っていましたが、豊後国での病死によりその夢は果たされませんでした。
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