「大友宗麟」と毛利元就の関係は?わかりやすい解説とクイズ問題
大友宗麟と毛利元就は戦国時代の武将で、この二人の関係は、主に九州での支配権をめぐるライバル関係でした。
筑前国(現在の福岡県)に小倉城を建設した毛利元就は、九州で支配地を広げたい大友宗麟にとって脅威であり、両者の間に緊張が生じました。
特に、門司城を巡る戦いは、両者の対立が最も激しく表れた事件の一つで、この戦いは、九州における支配権争いの中心的な出来事となりました。(1558年門司城の戦い)
この複雑な関係において特に注目すべき人物が高橋鑑種です。
もともと大友宗麟の家臣であった高橋鑑種は、毛利元就の誘いに応じて毛利家へと寝返り、この行動は九州における勢力のバランスに大きな影響を与えました。
しかし、毛利元就が九州から撤退した後、高橋鑑種は一旦大友宗麟に降伏しましたが、その後再び毛利家と手を結び、宗麟に対抗し続けました。
1568年立花城の戦いでは大友宗麟が豊後、肥後、筑後の勢力を結集し、筑後の高良山で軍を整え、立花城(現在の福岡市と新宮町・久山町にまたがる山にある城)の救援を試みました。
しかし、大友宗麟は立花城を確保することができず、敵対する毛利元就に城を明け渡さざるを得なくなりました。
その後も、毛利元就は、肥前の龍造寺隆信などたくさんの兵を集めたり、瀬戸内の水軍(海上での戦闘や輸送を行う軍隊)を動かして大友宗麟の基盤を揺るがしました。
これに対抗して大友宗麟も、毛利元就の支配地域への影響を試み、大内輝弘を利用して山口を一時的に占領しましたが、元就の策には及ばず、結局は撤退を余儀なくされました。
この時期の戦いは多々良浜の戦いと言われています。
その後、大友宗麟は地方の治安と経営に焦点を当て、城井鎮房による地域統治を行い、一時的な安定を得ることに成功しました。
大友宗麟と毛利元就の関係クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
九州での支配を巡り争った大友宗麟と毛利元就の間で、大友側から毛利側へ寝返った人は誰でしょうか?
- A. 立花道雪
- B. 高橋鑑種
- C. 黒田官兵衛
- D. 立花宗茂
【穴埋めクイズ問題】
大友宗麟と毛利元就の関係は、( ① )での支配権を巡る激しい競争をしていました。元就が小倉城を築城し九州での勢力拡大を図る中、宗麟はこれを脅威と捉え、門司城を巡る戦いで両者は対立しました。( ② )の裏切りは、この競争において重要な転機となり、元就と宗麟の間の九州における勢力のバランスに影響を及ぼしました。宗麟は( ③ )の救援を試みるも失敗し、元就の策略により宗麟の基盤を揺るがされました。元就は肥前の龍造寺隆信を動かし、宗麟の影響力を無くす戦略を展開します。宗麟も反撃に出ましたが、最終的には元就の勢力に圧倒されました。その後、宗麟は地方経営に注力し、地域の安定化を図りました。
( )のことばを答えてみよう!
- 「大友宗麟」は何をした人?
- 「大友宗麟」の年表(生涯)
- 「大友宗麟」はどんな人物?
- 「大友宗麟」の死因
- 「大友宗麟」の家臣
- 「大友宗麟」の家系図(子孫)
- 「大友宗麟」とザビエルの関係
- 「大友宗麟」と毛利元就の関係→今ココ
- 「大友宗麟」の城
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