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「黒田官兵衛(黒田孝高)」は何をした人?どんな人物?年表・エピソードまとめクイズ問題

黒田官兵衛(黒田孝高)
この記事を通じてわかること
歴史博士
黒田官兵衛は何をした人なのか、そしてどういう人物だったのか。黒田官兵衛の歴史や生涯をわかりやすく解説し、クイズ問題にしています。解説のあとに、4択クイズ穴埋めクイズがあるので挑戦してみて下さい。
助手ねこ
クイズに答えながら、黒田官兵衛について楽しく学んでいけるで〜♪

「黒田官兵衛(黒田孝高)」は何をした人?したことを簡単に解説

如水居士画像
如水居士画像(崇福寺) 画像出典:wiki
歴史博士
まずは黒田官兵衛が何をした人なのかをわかりやすく簡単に説明するね。
助手ねこ
よっしゃ!黒田官兵衛が何をした人なのかを簡単に知っとこう!ほないくで〜♪

黒田官兵衛くろだかんべえ、本名は黒田孝高くろだよしたかは、1546年に播磨国姫路で黒田職隆くろだもとたか嫡男ちゃくなん(一般に正室の生んだ男子のうち最も年長の子)として生まれました。幼少期から文武両道に励み、和歌や連歌に興じるなどしました。

23歳の時、黒田官兵衛は家督を継ぎ、小寺政職こでらまさもとの姪・櫛橋光くしはしてると結婚し姫路城主となります。

黒田官兵衛は織田信長に仕え、その後に豊臣秀吉の下でも大きく活躍します。特に中国大返しの際には、策略家としての才能を存分に発揮し、秀吉の信頼を一身に集めることとなりました。

豊臣秀吉から豊前国の大名に取り立てられ、福岡藩の基礎を築き上げます。黒田官兵衛は数々の築城にも関わり、「三大築城名手」の一人としてその名を馳せました。

また、本能寺の変の後に起こった豊臣秀吉の中国大返しでは、黒田官兵衛は秀吉軍の撤退戦を見事に指揮します。この時、官兵衛は敵に対する偽情報の流布などを駆使し、軍の迅速な移動を実現させました。

四国征伐では、長宗我部元親ちょうそかべもとちかとの戦いでその策略を発揮します。四国の地理と敵の心理を巧みに利用した戦術により、豊臣秀吉の四国平定を成功に導きました。

関ヶ原の戦いでは、息子の黒田長政くろだながまさと共に東軍に属し、九州での戦いで大きな成果を挙げます。その功績により、長政は筑前52万石を与えられ、黒田家の勢力は大きく拡大しました。

黒田官兵衛自身もこの時期に福岡城の築城を開始し、福岡の地名を改称するなど、地域社会にも大きな影響を与えました。

黒田官兵衛の晩年は、京都伏見で療養生活を送り、1604年に亡くなりました。

「黒田官兵衛」の年表(生涯)

歴史博士
年表を使って、「黒田官兵衛」の歴史や生涯を見てみましょう。
年代 詳細説明
1546年 播磨国姫路城主・小寺職隆の嫡男として誕生。
1567年 播磨志方城主・櫛橋氏の娘を正室に迎え、姫路城主として家督を継ぐ。
1569年 赤松政秀の攻撃を姫路城で撃退し、名声を得る。
1578年 荒木村重の説得に失敗し、約1年間幽閉される。
1580年 三木城陥落後、1万石を得て大名に。
1582年 豊臣秀吉に中国大返しをすすめ、山崎の戦いで勝利に貢献。
1587年 豊臣秀吉から豊前6郡を与えられ、馬ヶ岳城に入る。
1589年 家督を息子の黒田長政に譲り、自身の名を黒田如水に改める。
1600年 関ヶ原の戦いで九州を平定。黒田長政が筑前52万石を得る。
1601年 福崎の地を福岡に改称し、福岡城築城を開始。
1604年 京都伏見藩邸で死去。享年59歳。
助手ねこ
ここからは「黒田官兵衛」について深く知るためにさらなる解説歴史クイズ問題のスタートやでぇ〜!ワイは歴史めっちゃ好きやねん!楽しみやわ〜♪

「黒田官兵衛」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題

歴史博士
「黒田官兵衛」がどんな人物なのか、わかりやすく解説をのせてるよ。解説を読んだあとには、どの程度理解できたかチェックするために4択クイズと穴埋めクイズに挑戦してみよう♪
解説

黒田官兵衛(黒田孝高)は、1546年に播磨国はりまのくに姫路で生まれた戦国時代末期から安土桃山時代にかけての武将であり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の大名に仕えたことで知られています。

若い頃から和歌や文学に親しみ、高い教養を身につけた黒田官兵衛は、織田信長や豊臣秀吉の下で特にその才能を発揮し、戦略家としての腕前で名を馳せました。

豊臣秀吉の信頼を得てその参謀さんぼうとなり、多くの戦いで中心的な役割を果たした黒田官兵衛は、秀吉の天下統一の野望を実現するために尽力しました。

特に、備中高松城びっちゅうたかまつじょうの水攻め中国大返しなど、重大な戦いでの戦略が功を奏しました。

また、小田原攻めおだわらぜめでは無血開城(無血開城:戦闘を行わずに守り手が攻め手に城をあけわ渡すこと)を実現させるなど、交渉術にも長けていたことがうかがえます。

豊臣秀吉の死後は、関ヶ原の戦いで徳川家康の勝利に貢献し、その後の福岡藩の基礎を築くことにも関わりました。

黒田官兵衛自身は戦後、筑前国福岡藩主ちくぜんのくにふくおかはんしゅとなった息子の黒田長政くろだ ながまさによって、徳川家康からの恩賞として与えられた領地である福岡に移り、そこで晩年を過ごしました。

そして、京都の伏見ふしみで病没するまで、多くの功績を残しました。

黒田官兵衛はただの武将に留まらず、関ケ原の戦い後に福岡城の築城をしたり、町の区画整理にも関わるなど、領土経営にも手腕を発揮しました。

その政治力は、領内の発展に大きく貢献しました。

家臣や敵からも人徳を称えられた黒田官兵衛は、義理を重んじ、戦国の世においては珍しく人命を大切にする姿勢を持ち合わせていました。

また、一途な愛情を妻に捧げ、側室を持たないなど私生活でも節度を保つ人物であったと言われています。

黒田官兵衛はどんな人物クイズ問題

歴史の偉人クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
黒田官兵衛自身が築城した城は何でしょうか?

ヒント
関ケ原の戦い後に築城されました。
  • A.  福岡城
  • B.  仙台城
  • C.  江戸城
  • D.  小田原城
解答(男性)
正解はA.  福岡城

 

【穴埋めクイズ問題】

黒田官兵衛は( ① )国の姫路出身の戦国時代末期から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三大名に仕えました。若いころから文学や和歌に親しみ、教養を身につけた官兵衛は、特に秀吉の下で戦略家としての才能を発揮し、秀吉の天下統一に貢献しました。( ② )城の水攻めや中国大返し、小田原攻めでの無血開城など、その戦略と交渉術で知られています。秀吉の死後、( ③ )の戦いで家康を支え、戦後は福岡藩の基礎を築きました。福岡城の築城や町の区画整理にも関わり、領土経営にも手腕を発揮しました。義理を重んじ、人命を大切にし、妻に一途な愛情を捧げた節度ある生き方も評価されています。

(  )のことばを答えてみよう!

解答(女性)
①播磨
②備中高松
③関ヶ原

 

黒田官兵衛の歴史クイズ(索引)

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