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「徳川秀忠」は何をした人?どんな人物?年表・側室・母・エピソードまとめクイズ問題

徳川秀忠
この記事を通じてわかること
歴史博士
徳川秀忠は何をした人なのか、そしてどういう人物だったのか。徳川秀忠の歴史や生涯をわかりやすく解説し、クイズ問題にしています。解説のあとに、4択クイズ穴埋めクイズがあるので挑戦してみて下さい。
助手ねこ
クイズに答えながら、徳川秀忠について楽しく学んでいけるで〜♪

「徳川秀忠」は何をした人?したことを簡単に解説

徳川秀忠像
徳川秀忠像(松平西福寺蔵) 画像出典:wiki
歴史博士
まずは徳川秀忠が何をした人なのかをわかりやすく簡単に説明するね。
助手ねこ
よっしゃ!徳川秀忠が何をした人なのかを簡単に知っとこう!ほないくで〜♪

徳川秀忠とくがわひでただは1579年に徳川家康と側室・西郷局さいごうのつぼねの間に生まれました。

徳川秀忠の兄弟である長兄と次兄が様々な理由で徳川家康の後継者から外れたため、初めから家康の後継者としての役割を担う運命にありました。

1600年の関ヶ原の戦いにおいて、徳川秀忠は家康の指示により信濃の上田城攻めを任されますが、真田昌幸と真田幸村父子の抵抗により関ヶ原の主戦場に遅れて到着しました。

この行動は後に多くの批判を受けることになりますが、それでも徳川家の勝利後、徳川秀忠は徳川家康から幕府の指導者の座を譲られ、江戸幕府の第2代将軍となりました。

将軍として徳川秀忠は、大坂の陣を通じて豊臣家の完全な排除と、幕府の権威を確固たるものにすることに尽力しました。

大坂冬の陣では豊臣秀頼とよとみひでよりと和睦を結びましたが、その後の秀頼の違反行為を理由に夏の陣で豊臣家を完全に滅ぼしました。これにより、徳川家の全国にわたる支配が確立されました。

徳川秀忠の政治的手腕は、武家諸法度ぶけしょはっとの制定や大名への厳格な統制を通じて明らかです。秀忠は幕府の権力を強化し、大名間の争いを抑えることで国内の平和と安定を保ちました。

また、徳川秀忠は朝廷との関係を重視し、天皇家との結びつきを強化することで幕府の正統性を高めました。

1632年に胃がんで亡くなるまで徳川秀忠は、徳川幕府の基盤を固め、戦闘よりも政治的な安定と統治の確立に重きを置き、徳川幕府の長期にわたる統治の礎を築きました。

「徳川秀忠」の年表(生涯)

歴史博士
年表を使って、「徳川秀忠」の歴史や生涯を見てみましょう。
年代 詳細な説明
1579年 徳川秀忠が遠江国(現在の静岡県)の浜松城で、徳川家康と側室・西郷局の子として誕生。
1590年 上洛し、豊臣秀吉と面会。この時、豊臣秀吉から「秀」の一字を受け、幼名から徳川秀忠へ改名。
1595年 浅井長政とお市の方の三女で、豊臣秀吉の養女となっていた江姫との婚姻が成立。
1600年 関ヶ原の戦いに参加するも、真田昌幸に阻まれ、主戦場に間に合わず。このため、徳川家康からの叱責を受ける。
1605年 徳川家康から将軍職を譲り受け、江戸幕府2代将軍となり、朝廷からも征夷大将軍に任命される。
1614年〜1615年 大坂冬の陣・夏の陣にて豊臣秀頼を滅ぼし、徳川政権の安定に貢献する。
1616年 徳川家康が死去。徳川秀忠が実質的な権力を握り、幕府政策の実行にあたる。
1623年 徳川家光に将軍職を譲るが、大御所として引き続き政治に関与する。
1632年 54歳で死去。
助手ねこ
ここからは「徳川秀忠」について深く知るためにさらなる解説歴史クイズ問題のスタートやでぇ〜!ワイは歴史めっちゃ好きやねん!楽しみやわ〜♪

「徳川秀忠」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題

歴史博士
「徳川秀忠」がどんな人物なのか、わかりやすく解説をのせてるよ。解説を読んだあとには、どの程度理解できたかチェックするために4択クイズと穴埋めクイズに挑戦してみよう♪
解説

徳川秀忠は徳川家康の三男として1579年に生まれました。

元々は徳川家康の後継者として見られていませんでしたが、家康の長男と次男が継承の位置から外れる形となり、徳川秀忠が徳川家の跡を継ぐことになりました。

徳川家康が江戸幕府の基盤を築いた後、1605年に徳川秀忠が幕府のリーダーとしての役割を引き継ぎ、2代将軍に就任しました。

その治世は、強固な支配体制の確立と、武家諸法度ぶけしょはっとをはじめとするさまざまな政策により、徳川幕府の権力を強化することに大きく貢献しました。

そして、豊臣氏を完全に制圧し、武家諸法度を通じて大名たちに厳しい制限を課すことで、徳川幕府の絶対的な力を確立しました。

また、朝廷に対しても影響力を強め、五女の徳川和子とくがわまさこ後水尾天皇ごみずのおてんのうに嫁がせることで、徳川家と皇室との結びつきを強化しました。

外交面では、キリスト教の禁止や鎖国政策の基盤を築き上げることで、外部からの影響を限定し、国内の統制を強めました。

徳川秀忠は、真面目で実直な性格が伝えられており、徳川家康の意向を忠実に守りながらも、自身の政治色をしっかりと打ち出していきました。

幕府の基盤強化に向けた徳川秀忠独自の取り組みは、幕藩体制をより強固なものにし、徳川家の長期的な統治を可能にしました。

徳川秀忠はどんな人物クイズ問題

歴史の偉人クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
徳川秀忠がつくった法令は何でしょうか?

ヒント
大名たちを厳しく統制する目的がありました。
  • A.  建武式目
  • B.  武家諸法度
  • C.  御成敗式目
  • D.  分国法
解答(男性)
正解はB.  武家諸法度

 

【穴埋めクイズ問題】

徳川秀忠は徳川家康の( ① )男として1579年に生まれ、後継者として見られていませんでしたが、兄たちの状況の変化により徳川家の跡を継ぐことになりました。1605年に江戸幕府の( ② )代将軍に就任し、武家諸法度の制定などにより幕府の権力を強化しました。豊臣氏の完全な制圧や朝廷への影響力の拡大、( ③ )教の禁止と鎖国政策の導入など、内政と外交の両面で幕府の基盤を固めました。真面目で実直な性格の秀忠は、家康の方針を踏襲しつつ、独自の政治で幕府の長期安定に貢献しました。

(  )のことばを答えてみよう!

解答(女性)
①三
②2
③キリスト

 

徳川秀忠の歴史クイズ(索引)

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