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「北条泰時」は何をした人?どんな人物?年表・家系図・母・エピソードまとめクイズ問題

北条泰時
この記事を通じてわかること
歴史博士
北条泰時は何をした人なのか、そしてどういう人物だったのか。北条泰時の歴史や生涯をわかりやすく解説し、クイズ問題にしています。解説のあとに、4択クイズ穴埋めクイズがあるので挑戦してみて下さい。
助手ねこ
クイズに答えながら、北条泰時について楽しく学んでいけるで〜♪

「北条泰時」は何をした人?したことを簡単に解説

和田合戰義秀惣門押破
和田合戰義秀惣門押破 画像出典:wiki
歴史博士
まずは北条泰時が何をした人なのかをわかりやすく簡単に説明するね。
助手ねこ
よっしゃ!北条泰時が何をした人なのかを簡単に知っとこう!ほないくで〜♪

1183年に生まれた北条泰時ほうじょうやすときは、北条義時ほうじょうよしときの長男として、幼少期から鎌倉幕府の中心で育ちました。

北条義時と同様に、北条泰時もまた幕府の重要な役割に就き、幕府の政治や軍事に深く関わることとなります。

特に有名な出来事は、1221年に起こった承久じょうきゅうの乱です。

この乱は、幕府に対して後鳥羽上皇ごとばじょうこうが起こした反乱であり、北条泰時は幕府軍の総大将としてこの危機を鎮圧ちんあつしました。

北条義時の死後、北条泰時は幕府の執権しっけん(鎌倉幕府の将軍を補佐する役職のこと)として実権を握り、幕府の内政を一新することに専念します。

その業績の一つが、日本初の武家法典ぶけほうてん御成敗式目ごせいばいしきもく」の制定です。

これにより、武家社会の秩序が整備され、幕府の統治基盤とうちきばんが強化されました。

また、評定衆ひょうじょうしゅう(鎌倉幕府の最高機関として設置された機関)の設立により、幕府の政治体制を合議制ごうぎせいへと移行させ、幕府政治を安定させることに成功しました。

さらに北条泰時は、朝廷との関係にも深く関与しました。

特に、後嵯峨天皇ごさがてんのうの即位問題では、幕府の強硬きょうべんな姿勢を貫き、幕府と朝廷の関係性に新たな前例を作り出しました。

これにより、幕府の政治的影響力が朝廷にまで及ぶこととなり、幕府と朝廷の間の力関係に変化をもたらしました。

1242年、北条泰時は60歳でこの世を去りました。

長男・北条時氏ほうじょうときうじおよび次男・北条時実ほうじょうときざねが既に亡くなっていたため、孫・北条経時ほうじょうつねときが後を継ぎました。

「北条泰時」の年表(生涯)

歴史博士
年表を使って、「北条泰時」の歴史や生涯を見てみましょう。
年代 出来事 詳細説明
1183年 誕生 北条義時の長男として生まれる。幼名は金剛こんごう
1194年 元服 源頼朝から「頼」の字を贈られ「北条頼時ほうじょうときより」と名乗る。
1199年 源頼家に仕える 2代将軍源頼家みなもとのよりいえに仕え、その後、父・北条義時と共に政治活動を行う。
1213年 和田合戦 和田義盛を排除するための合戦で活躍し、その功績で遠田郡とおだぐんの所領を与えられるが辞退。
1219年 鎌倉幕府の管理 3代将軍源実朝が暗殺された後、幕府の政治において中心的役割を担う。
1221年 承久の乱 承久の乱で鎌倉幕府軍の総大将として勝利に貢献こうけん。その後、京都で戦後処理を行う。
1224年 3代執権に就任 父・北条義時が死去後、相続争いを経て3代執権に就任。
1232年 御成敗式目の制定 日本初の武家法「御成敗式目」を制定し、武家社会の制度を整備。
1230年 寛喜の飢饉 寛喜かんぎ飢饉ききんによる社会不安を受け、食糧供給の安定化などの対策を講じる。
1242年 死去 60歳で病没。
助手ねこ
ここからは「北条泰時」について深く知るためにさらなる解説歴史クイズ問題のスタートやでぇ〜!ワイは歴史めっちゃ好きやねん!楽しみやわ〜♪

「北条泰時」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題

歴史博士
「北条泰時」がどんな人物なのか、わかりやすく解説をのせてるよ。解説を読んだあとには、どの程度理解できたかチェックするために4択クイズと穴埋めクイズに挑戦してみよう♪
解説

北条泰時は、鎌倉幕府の第3代執権として知られる人物で、その生涯は、武家政権の確立と発展に大きく貢献しました。

北条泰時は、鎌倉幕府の実質的なトップとして政治を担い、幕府の内部構造を改革しました。

北条泰時は集団指導制を導入し、幕府の政策決定や訴訟の決断を、自身と叔父の北条時房ほうじょうときふさ、および評定衆という有力な御家人11名で構成された集団で行う体制を確立しました。

これにより、一部の権力者による専制政治から、より多くの声が反映される政治体制へ移行しました。

また、北条泰時は、承久の乱の後に全国の御家人の間で起こった紛争を解決するため、「御成敗式目」という幕府の基本の法典を作成しました。

これは日本初の武家法典とされ、武士が統治する上での道徳や倫理観を確立し、後の法律にも影響を与えました。

北条泰時は道理を重んじる裁定で知られ、公正な判断を下すことで尊敬されましたが、泰時の家庭では、子供を次々と失うという不幸に見舞われました。

また、政務の多忙さや朝廷との関係などによるストレスが原因で病に倒れ、59歳で亡くなりました。

北条泰時が亡くなった後も、泰時が築いた武家政権のいしずえは、その後600年も続いていきます。

北条泰時はどんな人物クイズ問題

歴史の偉人クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
鎌倉幕府の第3代執権についた人物は誰でしょうか?

ヒント
この人物は、全国の御家人の間で起こった紛争を解決するための御成敗式目を制定しました。
  • A. 北条時政
  • B. 北条義時
  • C. 北条泰時
  • D. 北条時宗
解答(男性)
正解はC.北条泰時

 

【穴埋めクイズ問題】

北条泰時は鎌倉幕府第3代執権で、幕府の内部構造を改革し、( ① )を導入して多くの声が反映される政治体制を確立しました。また、「( ② )」という日本初の武家法典を作成し、武士の道徳や倫理観を確立しました。公正な裁定で尊敬されましたが、家庭では( ③ )を次々と失い、政務の多忙さや朝廷との関係によるストレスが原因で病死し、59歳で亡くなりました。泰時が築いた武家政権の礎はその後600年も続いていきます。

(  )のことばを答えてみよう!

解答(女性)
①集団指導制
②御成敗式目
③子供

 

北条泰時の歴史クイズ(索引)
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