「今川義元」の息子とは?わかりやすい解説とクイズ問題
今川義元の息子は武田信虎の娘である定恵院との間の嫡男(嫡男:正室の生んだ男子のうち最も年長の子)である今川氏真と、一月長得と称した三男である今川長得です。
今川氏真は今川家の継承者として幼少期より温室育ちの環境で育てられ、1560年の桶狭間の戦いで父の今川義元が敗死すると、家督を継いで今川家12代目の当主となりました。
今川氏真の統治は文化活動にも力を入れ、和歌や蹴鞠の会などを多く催しましたが、武術よりも文化面に傾倒する傾向が否めませんでした。
今川家は駿河・遠江・三河の三国を支配していましたが、桶狭間の戦いで織田信長に敗北して以降、その勢力は急速に衰えていきます。
松平元康(後の徳川家康)の独立や三州・遠州の錯乱を経て、武田信玄との同盟破綻など、今川氏真は次第に領土を失い、今川家の勢力は弱体化していきました。
特に、1568年には武田信玄と徳川家康の連携による駿河・遠江への侵攻が開始され、今川家は瞬く間に没落の道を辿ります。
今川氏真は掛川城に退きますが、最終的には徳川家康と和睦(和睦:争いをやめて和解すること)し、伊豆の戸倉城に退去した後、北条氏の庇護(庇護:かばって守ること)を求めます。
しかし、義父の北条氏康死去後、北条氏政の政策変更により、小田原からも追われ、結局は徳川家康の庇護下へと入ります。
今川氏真は1575年の長篠の戦いでは家康軍の後詰めとして参加し、その後も徳川軍における活動を続けました。
しかし、最終的には表舞台から退くことになり、浜松城近辺で静かな晩年を過ごしました。
今川長得は、嫡男でない為に出家を余儀なくされ、一月長得と名乗って曹洞宗の僧侶となりました。
今川長得は1574年に萬昌院を建設し、後の1615年に死去した長得の兄である今川氏真は萬昌院に葬られました。
今川義元の息子クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
今川義元の嫡男は誰でしょうか?
- A. 今川氏真
- B. 今川氏親
- C. 今川長得
- D. 今川氏輝
【穴埋めクイズ問題】
今川義元の息子には、武田信虎の娘である定恵院との間に生まれた嫡男の今川氏真と、三男の今川( ① )がいます。氏真は1560年に父である義元の後を継ぎ、今川家( ② )代目の当主となり、文化活動に力を注ぎながらも、桶狭間の戦いの敗北を機に徳川家康との和睦や北条氏の庇護を求めるなど、今川家の勢力は衰退していきました。一方、( ① )は出家し、曹洞宗の僧侶として( ③ )院を建設しました。氏真は晩年を浜松城近辺で過ごし、最終的には( ① )が建設した( ③ )院に葬られました。
( )のことばを答えてみよう!
[…] 今川義元 […]