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「加藤清正」は何をした人?どんな人物?年表・功績・一族・エピソードまとめクイズ問題

加藤清正

「加藤清正」と一族(家系図)とは?わかりやすい解説とクイズ問題

歴史博士
「加藤清正」と一族(家系図)について、わかりやすく解説をのせてるよ。解説を読んだあとには、どの程度理解できたかチェックするために4択クイズと穴埋めクイズに挑戦してみよう♪

解説加藤清正は肥後熊本藩の初代藩主として知られ、多くの子孫を残しています。

加藤清正には正室(正室:身分の高い家の本妻)や側室(側室:正室以外の妻)を合わせて5人の妻がおり、その間に複数の子どもが生まれました。

長男の加藤虎熊かとう ただまさは幼くして亡くなり、長女の本浄院ほんじょういん榊原康勝さかきばら やすまさ阿部政澄あべ まさずみに嫁ぎました。

次男の加藤忠正かとう ただまさは天然痘で早世し、三男の加藤忠広かとう ただひろが家督を継ぐことになりましたが、忠広の時代に家は改易(改易:大名の領地や屋敷を没収すること)の憂き目に遭います。

次女の瑤林院ようりんいんは徳川頼宣に嫁ぎました。

また、生母不明の貴田正勝きだまさかつと養子の百助ももすけも一族に含まれます。

加藤清正の死後、三男の加藤忠広が家督を継ぎましたが、忠広は11歳の若さでこの重責を担うことになりました。

加藤忠広の治世は困難に満ち、最終的に改易へと繋がる事態が発生します。

加藤忠広自身は出羽国でわのくにに移され、文学や和歌を楽しむ余生を送りました。

加藤忠広の子供たちのうち、長男の加藤光広かとう みつひろは幼少の過ちが原因で藩の改易を引き起こす結果となり、次男の加藤正良かとうまさよしは自刃してしまいます。

長女の献珠院けんじゅいん阿部正重あべまさしげに嫁ぎました。

加藤光広と加藤正良には子供がいなかったため加藤家本家の直系子孫はここで絶えてしまいますが、加藤忠広には出羽国で子供が生まれており、加藤光秋かとうみつあきと詳細は不明ですが、女子が一人いました。

名前 関係 説明
加藤清正 本人 豊臣秀吉の家臣から大名へと昇り詰め、肥後熊本藩を治めた
加藤虎熊 清正の長男 山崎氏(清正の正室)の子。幼くして亡くなる
本浄院 清正の長女 浄光院(側室)の子。榊原康勝や阿部政澄に嫁ぐ
加藤忠正 清正の次男 本覚院(側室)の子。徳川家康による江戸幕府設立後、人質として江戸に置かれ、天然痘で亡くなる
加藤忠広 清正の三男 正応院(側室)の子。兄たちが早世したため加藤家の家督を継ぐが、後に改易される
瑤林院 清正の次女 清浄院(継室)の子。徳川頼宣に嫁ぐ
貴田正勝 清正の子 生母不明。清正の庶子とされる
百助 清正の養子 山崎片家の子。山崎氏(正室)の実弟。実子誕生後、実家に戻る
加藤光広 忠広の長男 崇法院(正室)の子。改易の一因となる謀反の書状を作ったとされ、蟄居後に病死
藤枝正良 忠広の次男 法乗院(側室)の子。父・忠広の死後、自刃する
献珠院 忠広の長女 法乗院(側室)の子。阿部正重に嫁ぐ
加藤光秋 忠広の子 丸岡で生まれた男子。その後の詳細は不明
女子 忠広の娘 丸岡で生まれた女子。婿を取り、子孫が加藤与治左衛門家を継ぐ

加藤清正と一族(家系図)クイズ問題

歴史の偉人クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
加藤清正の死後、誰が家督を継いだでしょうか?

ヒント
加藤清正と側室である正応院の間にできた三男で、11歳という若さで加藤家の家督を継ぎました。
  • A. 加藤忠正
  • B. 加藤光広
  • C. 加藤正良
  • D. 加藤忠広
解答(男性)
正解はD. 加藤忠広

 

【穴埋めクイズ問題】

加藤清正は肥後熊本藩の初代藩主で、( ① )人の妻との間に複数の子どもをもうけました。長男の加藤虎熊は幼くして亡くなり、長女の本浄院は榊原康勝や阿部政澄に嫁ぎ、次男の( ② )は天然痘で早世しました。三男の加藤忠広は家督を継ぎましたが、藩は改易されました。次女の( ③ )は徳川頼宣に嫁ぎました。忠広の子である加藤光広は改易の原因を作り、加藤正良は自刃し、献珠院は阿部正重に嫁ぎました。本家の直系は絶えましたが、忠広には出羽国で生まれた子がおり、加藤光秋ともう一人の女子の詳細は不明です。

(  )のことばを答えてみよう!

解答(女性)
①5
②加藤忠正
③瑤林院

 

加藤清正の歴史クイズ(索引)

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