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「毛利元就」は何をした人?どんな人物?年表・戦い・城・エピソードまとめクイズ問題

毛利元就

「毛利元就」が戦国大名になった理由とは?わかりやすい解説とクイズ問題

歴史博士
「毛利元就」が戦国大名になった理由について、わかりやすく解説をのせてるよ。解説を読んだあとには、どの程度理解できたかチェックするために4択クイズと穴埋めクイズに挑戦してみよう♪
解説

毛利元就が戦国大名にのぼり詰めた理由には、その生涯を通じて見せた卓越した戦略眼と、時の流れを読む洞察力、そして周囲の力を巧みに取り込む能力が挙げられます。

まず、毛利元就が郡山城こおりやまじょう主となった1523年の時点で、毛利氏は安芸国あきのくにの小規模な国人領主の一つに過ぎませんでした。

この当時、安芸国備後国びんごのくにを含む広島県地域は、多くの国の人たちが領地を持っており、大きな勢力を持つ尼子氏あまごしや大内氏の間で揺れ動いていました。

毛利元就は、安芸国の人たちとの協力を深め、北の尼子氏と南の大内氏という二大勢力の間で巧みに立ち回りました。

毛利元就は尼子氏から距離を置き、大内義隆おおうち よしたかと手を結ぶことで、安芸備後の軍事指揮権を握り、領土拡大に成功しました。

特に1529年には、尼子氏と結んだ高橋氏を大内氏らと共に打ち破り、高橋氏の持つ安芸と石見の国人連合の主導権と広大な領地を継承することに成功しました。

また、毛利元就は自らの子を有力な国人家族に養子として送り込むことで、その家族の力を毛利氏のものとし、瀬戸内海に水軍を持つ小早川こばやかわ氏や安芸・石見に勢力を持つ吉川氏といった重要な地点を掌握しました。

これらの戦略により「毛利の両川体制(両川体制:毛利元就によって吉川氏と小早川氏の両家を毛利分家として勢力を吸収し中国地方を領有した際、新たに確立した軍事または政治組織の通称)」が確立され、毛利氏の基盤が強化されました。

大内義隆が家臣の陶晴賢すえはるかたによって倒された後も、毛利元就は陶晴賢との関係を見極め、適切な時期に決別し、1555年の厳島の戦いで勝利を収めることに成功しました。

この勝利により、元就は大内氏の旧領を手中に収め、さらに1566年には尼子氏を滅ぼし中国地方のほぼ全域を支配下に置きました。

毛利元就のこれらの行動は、元就の周囲の情勢を正確に把握し、時には忍耐強く待ち、時には迅速に行動に出るその判断力戦略的思考があってこそ実現しました。

毛利元就の死後、孫の毛利輝元が叔父の吉川元春よしかわもとはる小早川隆景こばやかわたけかがに支えられ、毛利家の繁栄を守りました。これら一連の動きは、元就が築いた基盤の上に成り立っています。

毛利元就が戦国大名になった理由クイズ問題

歴史の偉人クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
毛利元就が陶晴賢の奇襲に成功し、中国地方制覇の土台となった戦いは何でしょうか?

ヒント
この戦いは1555年に現在の広島県で起こりました。
  • A. 吉田郡山城の戦い
  • B. 大寧寺の変
  • C. 有田中井手の戦い
  • D. 厳島の戦い
解答(男性)
正解はD. 厳島の戦い

 

【穴埋めクイズ問題】

毛利元就が戦国大名に昇りつめた理由は、生涯を通じて発揮された卓越した戦略眼、時代の流れを見極める洞察力、及び他勢力の力を自らの勢力拡大に利用する能力にあります。郡山城主となった1523年時点で、毛利氏は安芸国の小規模な国人領主だったが、元就は尼子氏と大内氏という地域の二大勢力間で巧みに舵を取り、安芸備後の( ① )権を確保し、領土を拡大しました。1529年には、尼子氏と結んだ高橋氏を打ち破り、その領地と主導権を継承します。さらに、小早川氏や吉川氏など重要な位置にある家族への子の養子縁組を通じて、毛利氏の基盤を強化しました。「( ② )体制」を確立し、大内義隆陶晴賢に倒された後も、適切なタイミングで陶晴賢と決別し、1555年の( ③ )の戦いで勝利を収め、1566年には尼子氏を滅ぼし、中国地方のほぼ全域を支配下に置きました。元就の戦略的な行動と判断力により、毛利氏は戦国大名へとのぼりつめ、その基盤は後継の毛利輝元によって継承されました。

(  )のことばを答えてみよう!

解答(女性)
①軍事指揮
②毛利の両川
③厳島

 

毛利元就の歴史クイズ(索引)

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