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「真田幸村(真田信繁)」は何をした人?どんな人物?年表・エピソードまとめクイズ問題

真田幸村(真田信繁)

「真田幸村」の家系図(子孫)とは?わかりやすい解説とクイズ問題

歴史博士
「真田幸村」の家系図(子孫)について、わかりやすく解説をのせてるよ。解説を読んだあとには、どの程度理解できたかチェックするために4択クイズと穴埋めクイズに挑戦してみよう♪
解説

真田幸村(真田信繁)は真田昌幸さなだまさゆきの次男として生まれ、大坂夏の陣で討ち死にしました。

真田幸村には多数の子供がいましたが、主に記録に残っているのは3人の男の子です。

真田幸昌さなだ ゆきまさ真田守信さなだ もりのぶ真田幸信さなだ ゆきのぶの三男がいます。

真田幸昌は真田幸村の嫡男ちゃくなん(嫡男:正室の生んだ男子のうち、最も年長の子)で、大坂夏の陣で若いながら戦いましたが、最終的には豊臣秀頼とよとみひでよりに殉死(殉死:死んだ主君のあとを追い,臣下が自殺すること)したとされています。

一方で、真田幸昌は豊臣秀頼とともに鹿児島へ逃れたという伝えもあります。

木下家の一子相伝いっしそうでん(一子相伝:学問や技芸などの奥義・秘法を、自分の子の中の一人だけに伝えること)の話によると、豊臣秀頼の子、豊臣とよとみ国松くにまつとともに鹿児島に落ち延び、木下家にかくまわれたとされています。

真田守信は真田幸村の次男で、幼名は大八だいはちです。

大坂城落城時に京都の片倉家に護送され、その後は仙台藩に仕え、真田四郎兵衛守信さなだ しろべえ もりのぶと名乗りました。

真田幸信は真田幸村の三男で、大坂城落城の2か月後に生まれました。

真田幸信は豊臣秀次とよとみ ひでつぐの娘との縁から三好幸信みよしゆきのぶを名乗り、岩城宣隆いわき のぶたかの元で育ちました。

真田幸村の兄弟には真田信之さなだ のぶゆき真田信勝さなだのぶかつ真田昌親さなだ まさちかがおり、それぞれが真田家の分家を築きました。

真田信之は真田昌幸の長男で、関ケ原の戦いで東軍に属して松代藩初代藩主となりました。

真田信勝と真田昌親に関する詳細は不明ですが、昌親の子孫は松代藩から内分して旗本となったことが伝えられています。

名前 関係 説明
真田昌幸 幸村の父 真田幸村の父であり、真田家の家督を息子たちに譲るまでの家長。多くの戦で知られる武将。
真田幸村(信繁) 本人 真田昌幸の次男。大坂夏の陣で討ち死に。
真田幸昌(大助) 幸村の嫡男 道明寺の戦いに参戦し、敵将の首を取る。大坂城落城時に豊臣秀頼に殉じたとされるが、鹿児島へ逃れたという伝承もある。
真田守信(大八) 幸村の次男 大坂城落城時に京都の片倉家に護送され、仙台藩に仕える。
真田幸信 幸村の三男 出生後間もなく大坂城が落城。三好姓を名乗り、岩城宣隆のもとで育つ。
真田信之 幸村の兄 真田昌幸の長男。徳川方に属し、松代藩初代藩主となる。
真田信勝 幸村の兄弟 詳細不明。
真田昌親 幸村の兄弟 関ヶ原の合戦で生き残り、松代藩から旗本になる。
その他の子供たち 幸村の子供 真田幸村には10人以上の子供がおり、その中には側室との間に生まれた子供も含まれる。

真田幸村の家系図(子孫)クイズ問題

歴史の偉人クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
真田幸村の次男で、大坂城落城時に京都の片倉家に護送されたのは誰でしょう?

ヒント
幼名は大八で、後に仙台藩に仕えました。
  • A. 真田幸昌
  • B. 真田守信
  • C. 真田信之
  • D. 真田幸信
解答(男性)
正解はB. 真田守信

 

【穴埋めクイズ問題】

真田幸村は真田( ① )の次男として知られ、大坂夏の陣で命を落としました。幸村には真田幸昌、真田( ② )、真田幸信の三男がおり、それぞれが異なる運命を辿りました。真田幸昌は若くして大坂夏の陣で活躍し、豊臣秀頼に殉じたと伝えられる一方で、鹿児島へ逃れたとの伝承も残ります。真田( ② )は片倉家に護送され、仙台藩に仕えました。真田幸信は生まれたばかりで大坂城の落城を迎え、後に岩城宣隆の下で育ち、三好幸信として知られるようになりました。真田幸村の兄弟としては、真田( ③ )が関ケ原の戦いで東軍に属し松代藩の初代藩主になりました。真田信勝と真田昌親の詳細は不明です。

(  )のことばを答えてみよう!

解答(女性)
①昌幸
②守信
③信之

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