「藤原道長」は何をした人?したことを簡単に解説
藤原道長は966年、京都で藤原兼家の五男として生まれました。
若いころから藤原道長は朝廷内の官職に就いていました。
藤原道長は父や兄弟が早くに亡くなったことで、自然と家族内での地位を固め、高い官職にも立ちました。
特に995年には兄の藤原道隆と藤原道兼が相次いで亡くなり、藤原道長に朝廷の実権を握る大きなチャンスが訪れました。
藤原道長は、自らの家族を天皇家と結びつけることでその権力を固める戦略をしました。
長女の藤原彰子が一条天皇の中宮に、次女藤原妍子が三条天皇の中宮に、そして三女藤原威子が後一条天皇の中宮に入ることに成功します。
これによって「一家三立后」という前例のない状況を実現しました。
1016年、藤原彰子の息子、敦成親王が後一条天皇として即位すると、藤原道長は摂政となり、自らの権力をさらに強化しました。
しかし、藤原道長は自身が直接政治に関与するよりも、背後で力を行使することを選び、摂政の地位を僅か1年で息子藤原頼通に譲りました。
藤原道長は文化に対する貢献も非常に大きく、多くの文学者や芸術家を保護しました。
中でも「源氏物語」の作者である紫式部の創作にも影響を与えました。
藤原道長自身も詩や和歌を愛好し、宮廷では数多くの歌を詠むなどしていました。
しかし、藤原道長は病に苦しみ、出家し京都に建立した無量寿院で隠居生活を送りました。
1028年に藤原道長は、糖尿病が原因で背中に腫れ物ができたことから62歳でこの世を去りました。
「藤原道長」の年表(生涯)
年代 | 出来事の概要 | 詳細な説明 |
---|---|---|
966年 | 生誕 | 藤原兼家の五男として生まれる。 |
995年 | 兄たちの死 | 兄藤原道隆と藤原道兼が相次いで死去し、政治での地位を固める。 |
996年 | 左大臣に昇進 | 長徳の変で藤原伊周とその弟が失脚し、左大臣に昇進。 |
1000年 | 彰子の入内 | 長女藤原彰子を一条天皇の中宮として入内させる。 |
1012年 | 妍子の入内 | 次女藤原妍子が三条天皇の中宮となり、皇后になる。 |
1016年 | 摂政となる | 藤原彰子の息子である敦成親王が後一条天皇として即位し、藤原道長は摂政となる。 |
1017年 | 太政大臣に就任 | 摂政の地位を息子の藤原頼通に譲り、自身は太政大臣となる。 |
1018年 | 威子の入内 | 三女威子を後一条天皇の中宮にする。 |
1019年 | 出家 | 病に苦しんで出家する。 |
1021年 | 無量寿院を建立 | 自宅の隣に阿弥陀堂として無量寿院を建立し、そこに住む。 |
1028年 | 死去 | 62歳で病により死去。 |
「藤原道長」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題
藤原道長は、平安時代に活躍した人物であり、貴族社会の頂点に立つ存在でした。
966年に京都で生まれた藤原道長は、藤原北家という名門貴族の出身で、道長の家族は既に高位の政治力を持っていました。
藤原道長は若年期から朝廷に仕え、数多くの高位官職を歴任し、990年に左大臣(左大臣:律令制で、太政官の長官にあたり、太政大臣の次位、右大臣の上位にあって、政務を統轄した者)となり、政治の実権を握るようになります。
そして、藤原道長は実質的な権力を行使する「内覧」(内覧:天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ること、またはその令外官の役職)の地位を利用して、天皇を補佐しました。
また、藤原道長は3人の娘を天皇に嫁がせることで、自身の権力を固めるとともに、「摂関政治」と呼ばれる政治体制を確立しました。
この体制では、天皇が幼い場合や女性の場合に、摂政が天皇の政治を代行し、成人している天皇に対しては関白が補佐するという形で政治が行われました。
藤原道長自身は摂政には就いたものの、直接関白にはなりませんでしたが、自らの立場を最大限に活用して、一族の権力を不動のものとしました。
また、藤原道長は文化人としても知られており、特に文学に深い関心をもっていました。
紫式部などの才女を支援し、紫式部たちが作成した文学作品は後世に大きな影響を与えました。
その中でも「源氏物語」は、平安時代の女性文学の最高峰とされており、藤原道長がこの作品の執筆を支援したことは広く認識されています。
藤原道長の最期は1028年で、62歳で世を去りました。
藤原道長の死後も、藤原北家はしばらくの間日本の政治を支配し続けましたが、やがて他の貴族や武士の台頭により、その影響力を徐々に失っていきました。
藤原道長はどんな人物クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
藤原道長が990年に就いた官職は何でしょうか?
- A. 内覧
- B. 摂政
- C. 関白
- D. 左大臣
【穴埋めクイズ問題】
藤原道長は平安時代中期の京都で生まれ、( ① )という有力な貴族家系の出身でした。道長は朝廷内で早くから仕え、数多くの高位官職を歴任し、最終的に( ② )となり、政治の実権を握りました。その後道長は「内覧」として天皇を補佐しました。また、藤原氏の権力を固めるために3人の娘を天皇の妃として宮中に送り込みました。この戦略により確立された( ③ )は、天皇が幼い頃や女性の場合に摂政が政治を代行し、成人した天皇には関白が補佐役となりました。さらに、道長は文化人としても活動し、紫式部などの文学者を支援し、「源氏物語」などの作品が後世に大きな影響を与えました。道長は1028年に62歳で亡くなり、その後も( ① )は一時期日本の政治を支配し続けましたが、次第にその影響力を失っていきました。
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