「黒田官兵衛(黒田孝高)」は何をした人?したことを簡単に解説
黒田官兵衛、本名は黒田孝高は、1546年に播磨国姫路で黒田職隆の嫡男(一般に正室の生んだ男子のうち最も年長の子)として生まれました。幼少期から文武両道に励み、和歌や連歌に興じるなどしました。
23歳の時、黒田官兵衛は家督を継ぎ、小寺政職の姪・櫛橋光と結婚し姫路城主となります。
黒田官兵衛は織田信長に仕え、その後に豊臣秀吉の下でも大きく活躍します。特に中国大返しの際には、策略家としての才能を存分に発揮し、秀吉の信頼を一身に集めることとなりました。
豊臣秀吉から豊前国の大名に取り立てられ、福岡藩の基礎を築き上げます。黒田官兵衛は数々の築城にも関わり、「三大築城名手」の一人としてその名を馳せました。
また、本能寺の変の後に起こった豊臣秀吉の中国大返しでは、黒田官兵衛は秀吉軍の撤退戦を見事に指揮します。この時、官兵衛は敵に対する偽情報の流布などを駆使し、軍の迅速な移動を実現させました。
四国征伐では、長宗我部元親との戦いでその策略を発揮します。四国の地理と敵の心理を巧みに利用した戦術により、豊臣秀吉の四国平定を成功に導きました。
関ヶ原の戦いでは、息子の黒田長政と共に東軍に属し、九州での戦いで大きな成果を挙げます。その功績により、長政は筑前52万石を与えられ、黒田家の勢力は大きく拡大しました。
黒田官兵衛自身もこの時期に福岡城の築城を開始し、福岡の地名を改称するなど、地域社会にも大きな影響を与えました。
黒田官兵衛の晩年は、京都伏見で療養生活を送り、1604年に亡くなりました。
「黒田官兵衛」の年表(生涯)
年代 | 詳細説明 |
---|---|
1546年 | 播磨国姫路城主・小寺職隆の嫡男として誕生。 |
1567年 | 播磨志方城主・櫛橋氏の娘を正室に迎え、姫路城主として家督を継ぐ。 |
1569年 | 赤松政秀の攻撃を姫路城で撃退し、名声を得る。 |
1578年 | 荒木村重の説得に失敗し、約1年間幽閉される。 |
1580年 | 三木城陥落後、1万石を得て大名に。 |
1582年 | 豊臣秀吉に中国大返しをすすめ、山崎の戦いで勝利に貢献。 |
1587年 | 豊臣秀吉から豊前6郡を与えられ、馬ヶ岳城に入る。 |
1589年 | 家督を息子の黒田長政に譲り、自身の名を黒田如水に改める。 |
1600年 | 関ヶ原の戦いで九州を平定。黒田長政が筑前52万石を得る。 |
1601年 | 福崎の地を福岡に改称し、福岡城築城を開始。 |
1604年 | 京都伏見藩邸で死去。享年59歳。 |
「黒田官兵衛」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題
黒田官兵衛(黒田孝高)は、1546年に播磨国の姫路で生まれた戦国時代末期から安土桃山時代にかけての武将であり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の大名に仕えたことで知られています。
若い頃から和歌や文学に親しみ、高い教養を身につけた黒田官兵衛は、織田信長や豊臣秀吉の下で特にその才能を発揮し、戦略家としての腕前で名を馳せました。
豊臣秀吉の信頼を得てその参謀となり、多くの戦いで中心的な役割を果たした黒田官兵衛は、秀吉の天下統一の野望を実現するために尽力しました。
特に、備中高松城の水攻めや中国大返しなど、重大な戦いでの戦略が功を奏しました。
また、小田原攻めでは無血開城(無血開城:戦闘を行わずに守り手が攻め手に城をあけわ渡すこと)を実現させるなど、交渉術にも長けていたことがうかがえます。
豊臣秀吉の死後は、関ヶ原の戦いで徳川家康の勝利に貢献し、その後の福岡藩の基礎を築くことにも関わりました。
黒田官兵衛自身は戦後、筑前国福岡藩主となった息子の黒田長政によって、徳川家康からの恩賞として与えられた領地である福岡に移り、そこで晩年を過ごしました。
そして、京都の伏見で病没するまで、多くの功績を残しました。
黒田官兵衛はただの武将に留まらず、関ケ原の戦い後に福岡城の築城をしたり、町の区画整理にも関わるなど、領土経営にも手腕を発揮しました。
その政治力は、領内の発展に大きく貢献しました。
家臣や敵からも人徳を称えられた黒田官兵衛は、義理を重んじ、戦国の世においては珍しく人命を大切にする姿勢を持ち合わせていました。
また、一途な愛情を妻に捧げ、側室を持たないなど私生活でも節度を保つ人物であったと言われています。
黒田官兵衛はどんな人物クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
黒田官兵衛自身が築城した城は何でしょうか?
- A. 福岡城
- B. 仙台城
- C. 江戸城
- D. 小田原城
【穴埋めクイズ問題】
黒田官兵衛は( ① )国の姫路出身の戦国時代末期から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三大名に仕えました。若いころから文学や和歌に親しみ、教養を身につけた官兵衛は、特に秀吉の下で戦略家としての才能を発揮し、秀吉の天下統一に貢献しました。( ② )城の水攻めや中国大返し、小田原攻めでの無血開城など、その戦略と交渉術で知られています。秀吉の死後、( ③ )の戦いで家康を支え、戦後は福岡藩の基礎を築きました。福岡城の築城や町の区画整理にも関わり、領土経営にも手腕を発揮しました。義理を重んじ、人命を大切にし、妻に一途な愛情を捧げた節度ある生き方も評価されています。
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