「今川義元」のエピソードとは?わかりやすい解説とクイズ問題
今川義元は、戦国時代の大名であり、1519年に名門今川家に生まれました。
幼少期に仏門(仏門:僧侶として出家すること)に出されたにもかかわらず、兄たちの急逝により家督を継ぐことになります。
若くして家督を継ぐと、母寿佳尼の後押しを受けて還俗(還俗:一度出家した者が元の俗人に戻ること)し、今川義元と名乗りました。
しかし、その即位は平穏ではなく、花倉の乱と呼ばれる御家騒動を経て、今川義元は家の実権を握ります。
統治者として今川義元は、領土拡大だけでなく、文化面でも功績を残しました。
守護不入地(守護不入地:守護使が立ち入って徴収や罪人逮捕するのを禁止する地域)の廃止や寄親寄子制度(寄親寄子:擬制して結ばれた主従関係や、保護者・被保護者の関係)の導入など、自身の領地内での直接統治を強化しました。
また、京都の文化に精通していた背景もあり、駿河では今川文化と呼ばれるほどの文化が花開いていました。
今川義元は「今川仮名目録」を改定して運用を強化し、「寄親寄子」という組織制度を採用することで領国経営を行いました。
また、商人登用による商業活性化や、検地による年貢増収を行うことで経済政策にも力を入れました。
今川義元はこのような領国経営や経済政策により「海道一の弓取り」とも称されるほどの強力な武将として知られました。
桶狭間の戦いでは、織田信長に敗れることになりますが、その死に際も武士としての意地を見せ、最後まで抵抗を続けました。
また、今川義元は徳川家康(当時は竹千代)に対しては、将来の脅威とならないように独特な教育をするよう家臣に命じました。
その教育は「むごい教育」と言われ、立派な戦国武将になれないように必要以上に甘やかす教育のことを指します。
さらに、桶狭間の戦い出陣前には、今川義元に敗れ自害した亡き異母兄の玄広恵探の亡霊が義元の目の前に現れるという逸話も残っています。
今川義元のエピソードクイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
今川義元は優れた領国経営や経済政策の点から何と呼ばれていたでしょうか?
- A. 北陸一の弓取り
- B. 畿内一の舵取り
- C. 海道一の弓取り
- D. 東山一の舵取り
【穴埋めクイズ問題】
今川義元は1519年生まれの戦国大名で、若くして仏門から戻り、家督を継ぎました。母寿佳尼の支持のもと、還俗し、今川家の実権を握りました。統治者として文化と経済の両面で改革を実施し、駿河での「( ① )」を花開かせました。守護不入地の廃止や寄親寄子制度の導入、経済政策により領地を強化し、「( ② )」と称されるまでになりました。人質だった徳川家康に対しては将来の脅威とならないよう「( ③ )教育」を行いました。異母兄の亡霊が現れるなどの逸話も残ります。義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、武士としての意地を見せつつ命を落としました。
( )のことばを答えてみよう!
- 「今川義元」は何をした人?
- 「今川義元」の年表(生涯)
- 「今川義元」はどんな人物?
- 「今川義元」の城
- 「今川義元」のエピソード→今ココ
- 「今川義元」の死因
- 「今川義元」の息子
- 「今川義元」と桶狭間の戦い
- 「今川義元」の家系図(子孫)
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