「黒田官兵衛」と徳川家康の関係とは?わかりやすい解説とクイズ問題
黒田官兵衛(黒田孝高)はもともと小寺政職の家老(家老:武家の重臣で、家中の総括をする職)であり、その後、豊臣秀吉に仕える武士として名を馳せました。
豊臣秀吉が亡くなった後、黒田官兵衛は時代の流れを読み、徳川家康が天下を取る可能性が高いと見越しました。
そのため、息子の黒田長政を徳川家康に近づけることで、家康との関係を深める戦略を取りました。
この戦略の一環として、黒田長政は徳川家康の姪、栄姫を正室に迎え入れました。
これは、黒田官兵衛が徳川家康に接近したい意向と、家康が黒田家との関係を深めたいという意向が合致した結果です。
黒田長政のこの婚姻は、黒田家と徳川家との絆を強化し、両家の利益を高めることに貢献しました。
1600年の関ヶ原の戦いにおいて、黒田家は徳川家康率いる東軍に属し、石田三成の本陣を攻めるなどして活躍しました。
黒田長政はまた、西軍についていた小早川秀秋や吉川広家などの諸将を調略(調略:内通者を使った諜報活動や政治的な工作など策を練ること)し、寝返りの交渉にもあたりました。
これらの戦功により、黒田家は外様大名(外様大名:江戸幕府で新藩、譜代以外の大名)でありながら徳川家康からの信頼を勝ち取り、黒田長政は関ヶ原の戦いにおける一番の功労者として筑前52万3000石を与えられました。
さらに、黒田官兵衛は九州での動きにおいても、徳川家康との関係を考慮に入れた行動を取りました。
豊臣秀吉の死後、黒田官兵衛は東西の争乱に乗じ九州で独自の勢力を拡大しようと試みましたが、関ヶ原の戦いが1日で徳川家康の勝利に終わると、速やかに兵を引き、家康に服従しました。
これは、黒田官兵衛が九州での行動を徳川家康との関係の中で慎重に計算していたことを表しています。
このように、黒田官兵衛は徳川家康が天下を取るという未来を見越して行動し、息子の黒田長政を通じて家康との関係を深めることで、黒田家の繁栄をつくりました。
黒田官兵衛と徳川家康の関係クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
黒田官兵衛が徳川家と関係を深める戦略の一環として、徳川家康の姪と婚姻関係を結んだのは誰でしょうか?
- A. 黒田職隆
- B. 黒田熊野助
- C. 黒田長政
- D. 黒田重隆
【穴埋めクイズ問題】
黒田官兵衛は豊臣秀吉亡き後、時代の動きを見極め、息子の黒田( ① )を徳川家康に近づける戦略を立てました。( ① )が徳川家康の姪、栄姫を妻に迎えることで、黒田家と徳川家の絆を深め、両家の利益を増大させました。1600年の( ② )の戦いでは、黒田家は東軍として活躍し、特に( ① )は石田三成の本陣攻撃や敵将の調略に成功し、家康からの信頼を得て筑前52万3000石の領地を授かりました。また、官兵衛は東西の争乱に乗じた( ③ )への勢力拡大を計画し、行動するも家康との関係を意識し、関ヶ原の戦い後に速やかに家康に服従しました。これらの行動は、官兵衛が家康の天下取りを見越し、黒田家の将来を計画した結果でした
( )のことばを答えてみよう!
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