「大谷吉継」のエピソードとは?わかりやすい解説とクイズ問題
大谷吉継は戦国時代末期に活躍した武将です。
母は高台院の取次を務めた東殿とされ、大谷吉継は豊臣秀吉の小姓として仕え、様々な功績を挙げました。
特に、賤ヶ岳の戦いでは敵であった長浜城主の柴田勝豊を味方につけるという、大きな手柄を立てました。
1589年には越前国敦賀郡に約2万石を与えられ、日本海交易の要港として地場産業の育成に尽力します。
朝鮮出兵では船奉行(水軍を統括する役職)・軍監(軍事を監督する役職)として活躍しました。
豊臣秀吉の死後、大谷吉継は徳川家康との関係も築きつつありましたが、石田三成との深い絆から、関ヶ原の戦いでは西軍側につき、命を落としました。
元々、大谷吉継と石田三成は豊臣秀吉によって引き合わされた同世代の友人であり、その深い友情は、茶会のエピソードで知られます。
その当時、茶会は、集まった者たちで一つの茶碗からみんなで茶を飲むというルールがあり、ある茶会で病気の大谷吉継が飲んだ茶碗を参加していた他の者は飲むふりをしていましたが、石田三成が躊躇なく茶を全て飲んだという話があり、この出来事で二人は互いに友情を深めました。
また、大谷吉継は関ヶ原の戦いで病気で目が見えず、歩いたり馬に乗れない状況でも、輿(人が乗り、担ぐもの)に乗って指揮をとり見事な采配を見せるも、裏切りにより、吉継の軍が壊滅的な被害にあい、自害してしまいました。
意外な逸話としては、大谷吉継の両親が子どもを授からないことを嘆いていたところ、八幡神社で松の実を食べる夢を見て実行した結果、吉継が生まれたというものがあります。
また大谷吉継のお墓についてのエピソードですが、敵であった藤堂高虎の甥の藤堂高刑によって吉継のお墓が建てられたという逸話もあります。
大谷吉継の家臣の湯淺五助に死に際、遺言で「首が見つからないように埋めてほしい」と残し、東軍に見つからないように首を埋められます。
その後、湯淺五助は、藤堂高刑に捕らわれ、湯淺五助が討たれる前に大谷吉継の首の在処を正直に伝えて供養を頼みました。
湯淺五助が討たれた後、敵ながらに感心した藤堂高虎と藤堂高刑は、徳川家康から大谷吉継の首がどこにあるのかという質問にも決して吉継の首の所在を口外せず、約束通り大谷吉継の墓を建てたとされています。
大谷吉継のエピソードクイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
大谷吉継が関ヶ原の戦いで見せた決断は何でしょうか?
- A. 徳川家康への裏切り
- B. 石田三成との絆により西軍に加わる
- C. 豊臣秀吉への忠誠の誓い
- D. 敵である藤堂高虎への降伏
【穴埋めクイズ問題】
大谷吉継は、豊臣秀吉の元で活躍した武将で、賤ヶ岳の戦いで敵だった相手を味方につけるなどの功績を挙げました。関ヶ原の戦いでは、( ① )との深い友情から西軍に加わり、命を落としました。二人の絆は、病気の吉継が飲んだ後の茶碗を三成が躊躇なく飲むエピソードで知られています。関ヶ原の戦いでは、目が見えず( ② )状態でも輿に乗って指揮を取りましたが、裏切りにより敗れ、自害しました。生まれにまつわる逸話では、両親が夢で八幡神社で松の実を食べ、夢の通りに実行したところ、吉継が生まれたと言われています。吉継の死後、敵であった藤堂高虎の甥、藤堂高刑により吉継の( ③ )が建てられます。家臣の湯淺五助は吉継の首の在処を高刑だけに伝えた後、討たれましたが、高刑は吉継の( ③ )を建てることで、五助の遺志を尊重しました。
( )のことばを答えてみよう!
- 「大谷吉継」は何をした人?
- 「大谷吉継」の年表(生涯)
- 「大谷吉継」はどんな人物?
- 「大谷吉継」の病気
- 「大谷吉継」の最後の言葉
- 「大谷吉継」のかっこいい所
- 「大谷吉継」の死因
- 「大谷吉継」のエピソード→今ココ
- 「大谷吉継」の家系図(子孫)