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「徳川秀忠」は何をした人?どんな人物?年表・側室・母・エピソードまとめクイズ問題

徳川秀忠

「徳川秀忠」の側室とは?わかりやすい解説とクイズ問題

歴史博士
「徳川秀忠」の側室について、わかりやすく解説をのせてるよ。解説を読んだあとには、どの程度理解できたかチェックするために4択クイズと穴埋めクイズに挑戦してみよう♪
解説

徳川秀忠は、多くの武将が側室を持つことが一般的だった時代においても、正式には側室を持たなかったという珍しい人物です。

徳川秀忠の正室はごうであり、二人の間には2男5女が生まれました。

お江は豊臣秀吉の側室である淀殿よどどのの妹で、秀吉と淀殿の間に生まれた豊臣秀頼とよとみひでよりを徳川家と結びつけるため、徳川秀忠と結婚させられました。

徳川秀忠にはしずという女性もおり、お静は秀忠にとって特別な存在でしたが、お江の嫉妬を恐れたために正式な側室とはされませんでした。

お静は徳川秀忠の乳母うば(乳母:母に代わって、子を育てる女性)である大姥局おおうばのつぼねに仕えていた時に秀忠に見初められ、やがて関係を持つようになりました。

しかし、お江の気性を考え徳川秀忠はお静を側室に迎えることなく、お静を武田信玄の娘である見性院けんしょういんのもとに預けました。

そこでお静は徳川秀忠との子である幸松ゆきまつ(後の保科正之ほしなまさゆき)を出産しました。

幸松は1617年に、見性院の縁で信濃しなの高遠たかとお藩主の保科正光ほしなまさみつに預けられ、養子として育てられました。

お静もその後、信濃の高遠城たかとおじょうに移り住みます。

お静は1635年に52歳で亡くなり、最初は長野県の長遠寺じょうおんじに葬られましたが、その後、保科正之が会津あいづ藩主になると福島県の浄光寺じょうこうじに改葬されました。

さらに日蓮宗にちれんしゅうを信仰していたお静は保科正之の手で山梨県の身延山久遠寺みのぶさんくおんじに改葬されました。

徳川秀忠の側室クイズ問題

歴史の偉人クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
徳川秀忠の正式な側室とはされなかったものの、秀忠と関係をもった女性は誰でしょうか?

ヒント
徳川秀忠は後にこの人物を武田信玄の娘である見性院のもとに預け、そこでこの人物は保科正之を産みました。
  • A.  お江
  • B.  淀殿
  • C.  阿茶局
  • D.  お静
解答(男性)
正解はD.  お静

 

【穴埋めクイズ問題】

徳川秀忠は、時代の慣習に反して正式には側室を持たない選択をした珍しい人物です。正室であるお江との間に3男5女をもうけました。お江は豊臣秀吉の側室である淀殿の妹で、豊臣家と徳川家の結びつきを強化するために結婚させられました。( ① )は秀忠にとって特別な人物でしたが、お江の反応を恐れて正式な側室とはならず、( ② )の元で息子の( ③ )(後の保科正之)を出産しました。( ③ )は後に信濃の高遠藩主保科正光の養子となり、( ① )自身も信濃に移住しました。( ① )は1635年に亡くなり、初めは長野県に葬られた後、福島県と山梨県に改葬されました。

(  )のことばを答えてみよう!

解答(女性)
①お静
②見性院
③幸松

 

徳川秀忠の歴史クイズ(索引)

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