「豊臣秀吉」の性格とは?わかりやすい解説とクイズ問題
豊臣秀吉の性格は、愛嬌があり、人の心をつかむのが上手く、人たらしと言われていました。
人たらしと言われてきたのは豊臣秀吉の主君や家臣に対する行動があります。
主君がピンチの状況のときには、率先して困難な仕事を引き受けていました。
1570年の金ヶ崎の戦いでは、織田信長が浅井・朝倉軍の巧妙なワナにはまり、絶体絶命の状況に追い込まれました。
このとき豊臣秀吉は、敵の追撃を一手に引き受け、織田信長を退却させるという危険な任務、殿(戦の最後尾)の役を自ら買って出ます。
この「献身的行為」によって、豊臣秀吉は織田信長からより重用されるようになりました。
豊臣秀吉は、家臣の失敗をあえて責めたりせず、逆にやさしい言葉をかけることで心をつかむのも得意でした。
1584年に徳川家康と戦った小牧・長久手の戦いの際、秀吉の水軍を指揮した九鬼嘉隆は、徳川方の反撃にあい、撃退されて九死に一生を得ます。
このときの失敗について九鬼嘉隆が豊臣秀吉に詫びると、豊臣秀吉は「あの状況で帰還できたことこそ、何よりの手柄である」と言って、むしろ嘉隆を称えたといいます。
それに感動した九鬼嘉隆は終生、豊臣秀吉に忠誠を尽くし、「関ヶ原の戦い」では西軍に加わって最後は自害して果てました。
これ以外にも人たらしの逸話は多く存在し、豊臣秀吉の長所であり、すごいところです。
また、女好き、酒好き、派手好きといった欲望に素直な面もあり、褒美や領土を気前よく与える豊臣秀吉は多くの武将や家臣の忠誠心を得ていましたが、あまり後のことを考えなかったというところも見受けられます。
戦術面では、ふつうの戦は得意ではなかったものの、城攻めや裏切り、根回しといった戦略に非常に長けていた豊臣秀吉は、知恵と策略を駆使して敵に不意打ちを食らわせていました。
豊臣秀吉の有名なエピソードとして、姫路城の金銀財宝を兵士に分け与え、中国大返しでの勝利を収めた逸話は、豊臣秀吉の大胆さと決断力を示しています。
この戦いでの成功は、豊臣秀吉の地位を不動のものにし、天下人への道を開いたと言えるでしょう。
豊臣秀吉は聚楽第(秀吉が京都に建てた邸宅)の建設や、自身の子どもを後継者にしようとする行動などから、権力や財力を極める一方で、権力の維持に対する執着がありました。
特に、養子や豊臣家の関係者への厳しい対応は、豊臣秀吉の冷酷な面を浮き彫りにしています。
豊臣秀吉の性格クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
豊臣秀吉はどんな性格と言われていたでしょうか?
- A. 人たらし
- B. 厳格がある
- C. 放任主義
- D. マイペース
【穴埋めクイズ問題】
豊臣秀吉は( ① )があり、人たらしでありながら、女好き、酒好き、( ② )好きの一面も持ち合わせていました。秀吉は領土や褒美を気前よく与え、多くの武将や家臣の忠誠心を得ていましたが、将来をあまり考慮しない傾向もありました。戦術面ではふつうの戦よりも城攻め等を得意とし、( ③ )と策略で多くの勝利を収めていました。姫路城での金銀財宝の分配や、聚楽第の建設は秀吉の大胆さと権力への執着をよく表しています。同時に、養子や豊臣家関係者への厳しい対応からは冷酷な一面も見られます。
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