「後醍醐天皇」と吉野とは?わかりやすい解説とクイズ問題
後醍醐天皇は、鎌倉幕府に反旗をひるがえし、二度にわたる討幕を企てた結果、隠岐に流されますが脱出し、最終的に足利尊氏との対立により吉野に南朝を開きました。
この時代、足利尊氏は持明院統の光明天皇を立て、北朝と南朝が並立します。
南北朝時代が始まり、後醍醐天皇は吉野でわずか3年の間に亡くなりました。
南北朝時代は、後醍醐天皇が亡くなった後も、後南朝を含めて長きにわたり続きました。
吉野は奈良県中央に位置し、広大な山岳地帯を含む地域で、後醍醐天皇以前にも、応神天皇の行幸や源義経の逃亡先として知られています。
後醍醐天皇の吉野における皇居は、当初吉水院に難を避け、次いで蔵王堂の西にある実城寺を金輪王寺と改め皇居としました。
その地は後に廃寺となりますが、現在は南朝妙法殿が建っています。
後醍醐天皇の遺志は、如意輪寺にある如意輪観世音菩薩と金剛蔵王権現への祈願にも表れており、亡くなる際には京都をにらむ形で崩御(崩御:天皇・皇后・皇太后・太皇太后が死ぬことの尊敬語)されました。
その墓所は塔尾陵、または延元陵と呼ばれています。
吉野神宮は明治天皇によって後醍醐天皇の偉業を称え創立され、吉水神社から遷された後醍醐天皇の尊像が今もまつられています。
後醍醐天皇と吉野クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
後醍醐天皇は吉野に開いた拠点は何でしょうか?
- A. 鎌倉幕府
- B. 北朝
- C. 南朝
- D. 室町幕府
【穴埋めクイズ問題】
後醍醐天皇は鎌倉幕府への反乱と失敗に続き、隠岐から脱出して足利尊氏と対立し、吉野に( ① )を樹立しました。この行動により南北朝時代が始まり、後醍醐天皇は吉野で亡くなるまでのわずか3年間を過ごしました。吉野は奈良県の中央にあり、古来より重要な人々が訪れた地です。後醍醐天皇の吉野での皇居は最初は( ② )であり、後に蔵王堂西の実城寺改め金輪王寺へと移されました。この場所は現在、南朝妙法殿として知られています。後醍醐天皇の墓所は( ③ )と呼ばれており、吉野神宮は明治天皇により後醍醐天皇を称えて創立されました。
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