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「北条時宗」は何をした人?どんな人物?年表・元寇・執権・エピソードまとめクイズ問題

北条時宗
この記事を通じてわかること
歴史博士
北条時宗は何をした人なのか、そしてどういう人物だったのか。北条時宗の歴史や生涯をわかりやすく解説し、クイズ問題にしています。解説のあとに、4択クイズ穴埋めクイズがあるので挑戦してみて下さい。
助手ねこ
クイズに答えながら、北条時宗について楽しく学んでいけるで〜♪

「北条時宗」は何をした人?したことを簡単に解説

満願寺所蔵の伝北条時宗像
伝北条時宗像(満願寺所蔵)     画像出典:wiki
歴史博士
まずは北条時宗が何をした人なのかをわかりやすく簡単に説明するね。
助手ねこ
よっしゃ!北条時宗が何をした人なのかを簡単に知っとこう!ほないくで〜♪

北条時宗ほうじょうときむねは1251年に北条時頼ほうじょうときよりの次男として相模国さがみのくに鎌倉に生まれました。

父北条時頼と母葛西殿かさいどののもとで育ち、幼少期から次期頭領としての期待されていました。

7歳の時に元服げんぷく(成人の儀式のこと)し、「相模太郎時宗さがみたろうときむね」と名乗った北条時宗は、その後すぐに政治の世界に足を踏み入れます。

若年じゃくねんながらもその資質と北条家での地位を背景に、鎌倉幕府の中枢で活躍する機会を得ました。

1268年には18歳で鎌倉幕府の第8代執権しっけん(鎌倉幕府の将軍を補佐する役職)に就任し、幕府政治における中心人物となります。

北条時宗の政治の中で特に有名な出来事が、元寇げんこうと呼ばれるモンゴル帝国による日本侵攻です。

北条時宗のリーダーシップのもとで日本が直面した最大の試練でした。

1274年の文永ぶんえいの役と1281年の弘安こうあんの役では、北条時宗は異国警備体制いこくけいびたいせいの強化と祈祷きとうによる異国調伏いこくちょうぶく(祈祷によって敵を下すこと)を指示し、これらの侵攻を撃退しました。

特に弘安の役では、元軍は台風により壊滅的な打撃を受け、これが「神風かみかぜ」として知られるようになりました。

北条時宗の時代におけるもう一つの重要な側面は、幕府内部の権力闘争と政治的安定の確保でした。

北条時宗は自らの権力基盤を固めるため、幕府内の反対勢力を排除し、得宗とくそう家(北条氏の嫡流・本家のこと)の権力を強化する一方で、幕府と朝廷との関係を巧みに操りました。

これらの政治的手腕により、北条時宗は幕府の権威を高め、防衛体制を強化することに成功しました。

しかし、その後北条時宗は出家し、34歳の短い生涯でこの世を去りました。

北条時宗の遺体は円覚寺えんがくじに葬られました。

「北条時宗」の年表(生涯)

歴史博士
年表を使って、「北条時宗」の歴史や生涯を見てみましょう。
年代 出来事 詳細な説明
1251年 生誕 相模国鎌倉にて、北条時頼の二男として誕生。幼名は正寿まさとし
1268年 執権就任 フビライ・ハンから日本の服属を求める国書こくしょが届く。18歳の北条時宗はこれを拒絶し、幕府内の統一された対応を主導。これが日本における元寇への対抗措置の始まりとなる。
1272年 二月騒動 北条時宗の兄である北条時輔ほうじょうときすけ謀反むほんを企てたと疑われ、殺害される事件。この事件を契機けいきに時宗は幕府内の権力を一層固め、政敵を排除するようになる。
1274年 文永の役 元軍が日本侵攻を開始するが、日本側は神風と称される台風に助けられて元軍を撃退。この戦いでの防衛策として、日本は海岸線に石塁せきるいを築くなどの防御体制を強化した。
1281年 弘安の役 元軍が再び日本を侵攻。今度は日本側が完全に備えを整えており、再度の神風もあって元軍を撃退。
1282年 円覚寺創建 元寇の慰霊いれいと禅宗への帰依を示すため、無学祖元むがくそげんを開山として円覚寺を創建。
1284年 死去 34歳の若さで死去。
助手ねこ
ここからは「北条時宗」について深く知るためにさらなる解説歴史クイズ問題のスタートやでぇ〜!ワイは歴史めっちゃ好きやねん!楽しみやわ〜♪

「北条時宗」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題

歴史博士
「北条時宗」がどんな人物なのか、わかりやすく解説をのせてるよ。解説を読んだあとには、どの程度理解できたかチェックするために4択クイズと穴埋めクイズに挑戦してみよう♪
解説

北条時宗は、鎌倉時代の政治家です。

1251年に相模国さがみのくに鎌倉で北条時頼ほうじょうときよりの子として生まれ、鎌倉幕府の第8代執権となりました。

北条時宗は、内政の安定化と外敵からの国防という主に二つの大きな責任がありました。

この時期は、外国からの脅威があらわれた時代であり、その中でも特に知られているのが元寇げんこうといわれる蒙古軍もうこぐんの侵攻です。

1274年の文永ぶんえいの役と1281年の弘安こうあんの役では、北条時宗は蒙古軍の侵攻に対して日本の防衛を指揮しました。

特に、博多沖での蒙古軍との戦いでは、日本側が苦戦しつつも、自然現象とされる「神風かみかぜ」に助けられたとも伝えられます。

これらの戦いでは、海岸線に石塁せきるいを築くなど、再侵攻に備えた防御策を実行しました。

執権としての北条時宗の政治は、幕府の権力基盤を強化し、得宗家とくそうけ(得宗家:鎌倉幕府の執権北条氏の家督)の地位を不動のものにするための政策に焦点を当てました。

具体的には、敵を排除し、幕府内の統制を強めることで、中央集権的な体制を確立しようと試みました。

また、北条時宗は文化面においても影響を与えています。

禅宗ぜんしゅうを尊重し、中国から無学祖元むがくそげんを招いて円覚寺えんがくじを開山したことは、仏教文化における重要な出来事となっています。

北条時宗はどんな人物クイズ問題

歴史の偉人クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
北条時宗は第何代の鎌倉幕府執権でしょうか?

ヒント
北条時宗の前の鎌倉幕府執権は北条政村で、その前は北条長時でした。
  • A.  9
  • B.  8
  • C.  7
  • D.  6
解答(男性)
正解はB.  8

 

【穴埋めクイズ問題】

北条時宗は、鎌倉時代の政治家として活躍しました。1251年に相模国鎌倉で生まれ、鎌倉幕府第8代執権に就任しました。外国からの脅威、特に( ① )に際して、時宗は日本の防衛を指揮し、文永の役と弘安の役で蒙古軍の侵攻を撃退しました。この過程で、海岸線に石塁を築くなどの防御策を実施しました。内政では、幕府の権力基盤強化と( ② )の地位確立に努め、幕府内の統制を強化しました。また、禅宗に敬意を払い、( ③ )の開山に尽力するなど、仏教文化への貢献も見せました。

(  )のことばを答えてみよう!

解答(女性)
①元寇
②得宗家
③円覚寺

 

北条時宗の歴史クイズ(索引)

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