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「北条政子」は何をした人?どんな人物?年表・演説・名言・エピソードまとめクイズ問題

北条政子
この記事を通じてわかること
歴史博士
北条政子は何をした人なのか、そしてどういう人物だったのか。北条政子の歴史や生涯をわかりやすく解説し、クイズ問題にしています。解説のあとに、4択クイズ穴埋めクイズがあるので挑戦してみて下さい。
助手ねこ
クイズに答えながら、北条政子について楽しく学んでいけるで〜♪

「北条政子」は何をした人?したことを簡単に解説

北条政子木像(安養院所蔵)
北条政子木像(安養院所蔵) 画像出典:wiki
歴史博士
まずは北条政子が何をした人なのかをわかりやすく簡単に説明するね。
助手ねこ
よっしゃ!北条政子が何をした人なのかを簡単に知っとこう!ほないくで〜♪

北条政子ほうじょうまさこは1157年、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)において、北条時政ほうじょうときまさの長女として誕生しました。北条家は、伊豆国の有力者でした。

北条政子はのちに鎌倉幕府の将軍となる、源頼朝と出会います。

その出会いは運命的なもので、平治の乱に敗れた頼朝が伊豆に流され、頼朝の監視役に北条時政が任命されたことがきっかけでした。

当時、源頼朝は14歳、北条政子は4歳でしたが、頼朝が伊豆に20年ほど流されていたこともあり、二人の関係は徐々に深まり、やがて恋愛関係へと発展しました。

周囲の激しい反対を押し切って、最終的には二人は結婚しました。

その後、夫となった源頼朝とともに、北条政子は鎌倉幕府の初期の基盤固めに貢献しました。

源頼朝の死後、北条政子はより目立つ存在となります。

頼朝の後を継いだ息子たちは、幕府の将軍としてその地位を継ぎましたが、政子自身も幕府の実権を握り、「尼将軍」として知られるようになりました。

北条政子は、息子や父といった親族の中で権力争いを制し、幕府内の安定と秩序を確立しようと努めました。

特に注目されるのは、承久じょうきゅうの乱での出来事です。

この内乱は、鎌倉幕府と朝廷との間の権力争いを理由に起きました。

北条政子は、幕府軍を鼓舞こぶするための演説を行い、幕府側の士気を高めることに成功しました。

政子の指導のもと、幕府はこの乱を鎮めることに成功し、その結果、幕府の権威は一層固まりました。

北条政子が亡くなったのは承久の乱から4年後、1225年です。

死因は明らかになっていませんが、逆修ぎゃくしゅ(生前に自分自身の冥福を祈る仏事)を執り行った後、約1か月後に危篤状態に陥り、永眠しました。

「北条政子」の年表(生涯)

歴史博士
年表を使って、「北条政子」の歴史や生涯を見てみましょう。
年代 出来事の概要 詳細な説明
1157年 誕生 伊豆国(現静岡県伊豆半島)にて北条時政の長女として生まれる。
1177年(諸説あり) 源頼朝との結婚 周囲の反対を押し切り、罪人の立場にあった源頼朝と結婚。
1180年 源頼朝の挙兵 北条政子は夫・源頼朝が平家打倒のために挙兵する際に支援。
1199年 源頼朝の死後 源頼朝死後、北条政子は出家し、尼将軍として幕府を支える。
1203年 源頼家の幽閉 源頼朝との間に産まれた長男・源頼家を伊豆に閉じ込め、最終的に殺害。
1205年 北条時政の追放 政権奪取を図る父・北条時政を伊豆に追放。
1219年 源実朝の暗殺 北条政子の次男である源実朝が暗殺され、源氏の直系が絶える。
1221年 承久の乱 後鳥羽上皇ごとばじょうこうの挙兵に対し、北条政子は鎌倉幕府の武士を鼓舞こぶし、幕府の勝利に大きく貢献。
1225年 死去 病床に伏し、生前の冥福を祈る逆修を執り行った後、亡くなる。
助手ねこ
ここからは「北条政子」について深く知るためにさらなる解説歴史クイズ問題のスタートやでぇ〜!ワイは歴史めっちゃ好きやねん!楽しみやわ〜♪

「北条政子」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題

歴史博士
「北条政子」がどんな人物なのか、わかりやすく解説をのせてるよ。解説を読んだあとには、どの程度理解できたかチェックするために4択クイズと穴埋めクイズに挑戦してみよう♪
解説

北条政子は1157年に伊豆国いずのくに北条時政ほうじょうときまさの長女として誕生し、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて生きた人物です。

北条政子は源頼朝と両家が敵対関係にあったにもかかわらず、恋愛を経て結婚しました。

この結婚は後に鎌倉幕府の基礎を築くことになり、源頼朝は鎌倉幕府の初代征夷大将軍となります。

源頼朝の没後、北条政子は幕府内での政治的影響力を増すと共に、「尼将軍あましょうぐん」として知られるようになりました。

また、北条政子は幕府での息子たちの地位を確立するために、冷酷な決断を下すこともありました。

北条政子の長男である源頼家みなもとのよりいえは幽閉され、最終的には命を落とし、自身の父である北条時政を政治の場から遠ざけるという選択をしたのも北条政子でした。

藤原頼経ふじわらよりつねを幼少の将軍として迎え入れた際も、北条政子は実質的な政治の指導者としての役割を果たしました。

特によく知られている北条政子の出来事は、承久じょうきゅうの乱における行動です。

この乱で北条政子は、御家人たちを鼓舞し、幕府の一致団結を促す演説を行いました。

この演説は、幕府の勝利に大きく貢献したとされ、北条政子は精神的な強さとリーダーシップを発揮しました。

北条政子の死後、多くの人々が追悼の意を表すために出家しました。

これは北条政子が、当時の社会において広く尊敬され、影響力のある人物であったことをあらわしています。

北条政子はどんな人物クイズ問題

歴史の偉人クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
北条政子は誰と結婚したでしょうか?

ヒント
この人物は、鎌倉幕府の初代征夷大将軍です。
  • A.  源頼家
  • B.  源頼朝
  • C.  源義経
  • D.  源義朝
解答(男性)
正解B.  源頼朝

 

【穴埋めクイズ問題】

北条政子は1157年、伊豆国で生まれた( ① )の長女で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した人物です。源頼朝との結婚を経て、鎌倉幕府の基礎を築き、その後「( ② )」として知られるようになりました。頼朝の没後、政子は幕府内での地位を確立し、政治的にも影響力を増していきました。時に息子たちの地位を守るために冷酷な決断を下すこともありましたが、それは幕府の存続と安定のためでした。特に( ③ )における演説で御家人たちを鼓舞し、幕府の勝利に大きく貢献しました。政子の死後、多くの人々がその死を悼み、出家することで尊敬と追悼の意を表しました。

(  )のことばを答えてみよう!

解答(女性)
①北条時政
②尼将軍
③承久の乱

 

北条政子の歴史クイズ(索引)

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