「北条義時」と後鳥羽上皇の関係とは?わかりやすい解説とクイズ問題
北条義時と後鳥羽上皇の関係は敵対関係にあります。
承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵し、幕府の実力者である北条義時と対立しました。
源頼朝が鎌倉幕府を設立した後、朝廷の西国支配と幕府の東国支配という二頭政治が続いていました。
源頼朝は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後、全国に守護(治安、警備の仕事)と地頭(私有地の税の取り立てが主な仕事)を設置し、武士の力を強化しました。
これは幕府の基盤を固めるものでしたが、地頭の力が強くなるにつれて、土地や年貢を奪う者も現れ、朝廷や貴族の収入は減少しました。
後鳥羽上皇と良好な関係であった源実朝の暗殺後、幕府と朝廷の関係は一気に悪化します。
その後、北条政子は後鳥羽上皇と協議し、源実朝の妻の甥を次期将軍にする約束を交わすものの、これは実現せず、後鳥羽上皇は幕府に対する不満を募らせていきました。
特に、北条義時による地頭の廃止拒否や仁科盛遠の領地没収は、後鳥羽上皇と義時の間の緊張を高める一因となりました。
この出来事がきっかけで、1221年に後鳥羽上皇は挙兵し、北条義時の追討を命令しました。
しかし、幕府は迅速に軍を動員し、朝廷の軍を撃破し、承久の乱は幕府が勝利しました。
その後、後鳥羽上皇は隠岐(現在の島根県)に流されました。
北条義時と後醍醐上皇の関係クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
後鳥羽上皇と北条義時の間の対立が原因で起こった戦いは何でしょうか?
- A. 承久の乱
- B. 壬申の乱
- C. 平治の乱
- D. 応仁の乱
【穴埋めクイズ問題】
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府への不満を背景に北条義時に対して挙兵した事件です。源頼朝による幕府の設立後、朝廷と幕府の二頭政治が続きましたが、守護と( ① )の設置によって武士の力が強化され、朝廷の収入は減少しました。( ② )の死後、後鳥羽上皇と幕府との関係は急速に悪化しました。義時の( ① )廃止拒否や仁科盛遠の領地没収は、両者の緊張を一層高めました。1221年、後鳥羽上皇は挙兵し、義時の追討を命令しましたが、幕府軍は朝廷軍を撃破し、( ③ )を終結させました。その後、後鳥羽上皇は隠岐に流されました。
( )のことばを答えてみよう!
- 「北条義時」は何をした人?
- 「北条義時」の年表(生涯)
- 「北条義時」はどんな人物?
- 「北条義時」の死因
- 「北条義時」の家系図(子孫)
- 「北条義時」の妻
- 「北条義時」の墓
- 「北条義時」と後鳥羽上皇の関係→今ココ
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