「直江兼続」は何をした人?したことを簡単に解説
「直江兼続」の年表(生涯)
年代 | 出来事の概要 | 詳細な説明 |
---|---|---|
1560年 | 直江兼続の誕生 | 直江兼続は越後国で生まれる。上杉謙信の姉に才能を認められ、後に上杉景勝に仕える。 |
1564年 | 長尾政景の死去 | 上田長尾家当主・長尾政景が死去。政景の子である長尾顕景(後の上杉景勝)が上杉謙信の養子となり、直江兼続はその近侍となる。 |
1578年 | 御館の乱 | 上杉家の後継者争い「御館の乱」で上杉景勝側に立ち、勝利に貢献。これにより景勝の信頼を得る。 |
1581年 | 直江家を相続 | 直江信綱の死により直江家が途絶えそうになったが、上杉景勝の勧めで信綱の未亡人お船と結婚し、直江家を継ぐ。 |
1584年~ | 豊臣政権下の活動 | 豊臣秀吉に仕え、越後国内での新田開発や治水事業、佐渡金山の管理など、内政面での活躍をする。 |
1598年 | 上杉家の会津移封 | 豊臣秀吉の命により上杉景勝が会津120万石に移封される際、直江兼続に米沢30万石が与えられる。 |
1600年 | 関ヶ原の戦い | 関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗北。しかし、その後の交渉により上杉家は存続し、米沢30万石に減封される。 |
1619年 | 死去 | 直江兼続は江戸で死去。死後、直江家は断絶する。 |
「直江兼続」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題
直江兼続は、1560年に新潟県の南魚沼市にある坂戸城で生まれた武将で、越後国の名門・直江家を継ぎ、上杉景勝のもとで活躍しました。
幼名は与六といい、上杉謙信の姉である仙桃院の目に留まり、その才能を認められます。
上杉謙信の死後、上杉家の後継者となった上杉景勝に仕え、その信頼を一身に受けることとなります。
御館の乱での功績により、上杉景勝から直江家を継ぐことを勧められ、1581年に与板城主となりました。
与板城主としての直江兼続は、地域開発や産業振興に力を入れ、特に「越後与板打刃物」(越後与板打刃物:新潟県長岡市与板地域で作られている刃物)の振興に貢献しました。
上杉家の宰相として、豊臣政権下での佐渡制圧や朝鮮出兵など、内政外交の大半を担い、上杉家の舵取りを任されました。
また、武芸だけでなく学問にも優れ、文化人としての素養も身につけていました。
豊臣秀吉からはその才能を高く評価され、「天下の政治を任せられる一人」と称賛されました。
慶長3年には上杉景勝が会津120万石に移封(移封:大名などを他の領地へ移すこと)された際、直江兼続自身も米沢30万石を与えられるなど、豊臣秀吉から特別な待遇を受けました。
関ヶ原の戦いでは、徳川家康と敵対し、その結果、上杉家は米沢30万石に減封(減封: 武士の所領や城・屋敷の一部を削減すること)されましたが、直江兼続の働きにより上杉家の存続を許されます。
その後も米沢での新たな城下町づくりに尽力し、上杉家のために生涯を捧げました。
直江兼続は、1619年に江戸の鱗屋敷(鱗屋敷:直江兼続の屋敷で、土地の形が魚の鱗のようだったことが由来)で亡くなり、その遺骸は米沢の徳昌寺に葬られ、後に林泉寺に改葬されました。
直江兼続は越後から会津、さらに米沢へと領地を移しながらも、上杉家に対する忠義を貫き、武将としてだけでなく、学者、文化人としてもその生涯を全うした人物です。
直江兼続はどんな人物クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
直江兼続は上杉謙信の死後、誰のもとに仕えたでしょうか?
- A. 上杉景虎
- B. 徳川家康
- C. 上杉景勝
- D. 伊達政宗
【穴埋めクイズ問題】
直江兼続は1560年に新潟県南魚沼市で生まれた武将で、越後国の直江家を継ぎました。兼続は上杉謙信の姉である仙桃院に認められるほどの才能がある人物です。( ① )に仕え、御館の乱での活躍により( ② )城主に就任しました。地域開発や「越後与板打刃物」の振興に尽力し、上杉家の宰相として豊臣政権下で重要な役割を果たしました。豊臣秀吉からは「天下の政治を任せられる一人」と評価され、特別な待遇を受けました。( ③ )の戦いで徳川家康と敵対したものの、その後の米沢での城下町づくりに貢献しました。1619年に江戸で死去し、米沢の徳昌寺に葬られました。兼続は、上杉家に対する忠義を貫き、武将だけでなく学者、文化人としても生涯を全うした人物として知られています。
( )のことばを答えてみよう!
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- 「直江兼続」と関ケ原の戦い
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