「直江兼続」と関ケ原の戦いとは?わかりやすい解説とクイズ問題
直江兼続は上杉景勝の家臣であり、上杉家の戦略を担っていた重要な人物です。
豊臣秀吉の死後、権力を握った徳川家康に対して、直江兼続は豊臣政権の存続を望む勢力として、石田三成らと共に家康に反対の立場を取りました。
徳川家康の圧力に対して、直江兼続は上杉家の正当性を主張する、家康への抗議の意を込めた直江状を送ります。
この直江状は、後に関ヶ原の戦いの原因の一つとされることになりますが、実際には多くの要因が複雑に絡み合っていました。
関ヶ原の戦いが勃発すると、直江兼続は東北での長谷堂の戦いに参加していました。
具体的には、最上義光と伊達政宗の連合軍と戦うために、最上領に侵攻しました。
直江兼続は関ヶ原の本戦には参加していませんでしたが、西軍の一員として東北で徳川家康の同盟者と戦っていました。
関ケ原の戦いに決着がつき、徳川家康率いる東軍に西軍が敗北したことを知った直江兼続は、激戦の末、上杉軍を撤退させることに成功します。
この撤退戦では、直江兼続の戦術が高く評価され、後に徳川家康からも賞賛されるほどでした。
関ヶ原の戦い後、上杉景勝は徳川家康に謁見(謁見:貴人や目上の人にお目にかかること)し、謝罪を行います。
結果として、上杉家は会津から米沢への大幅な減封(減封:武士の所領や城・屋敷の一部を削減すること)を受け入れることになりますが、直江兼続は家臣を解雇することなく、米沢での新たな生活を始めることを決めます。
この時の決断は、米沢藩の基盤固めに大きく貢献しました。
直江兼続は、関ヶ原の戦いにおける上杉軍の行動やその後の処遇を通して、忠義と知略を持ち合わせた武将として知られています。
直江兼続と関ケ原の戦いクイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
関ケ原の戦いが勃発した時に起きた、直江兼続と最上義光・伊達政宗連合軍との戦いは何でしょうか?
- A. 文禄の役
- B. 長谷堂の戦い
- C. 鴫野の戦い
- D. 小田原討伐
【穴埋めクイズ問題】
直江兼続は上杉景勝の重臣として、豊臣政権を支持しており、徳川家康への反対勢力に位置付けられました。兼続は上杉家の立場を守るため、家康に抗議する( ① )を送り、これが関ヶ原の戦いへの一因となりました。関ヶ原の合戦では、兼続は本戦には参加せず、東北で最上義光と( ② )の軍と戦いました。この戦いを( ③ )の戦いといいます。徳川家康率いる東軍の勝利を知った兼続は上杉軍の撤退を成功させました。戦後、上杉景勝は家康に謁見し謝罪、上杉家は会津から米沢へ減封されましたが、兼続は家臣団を解雇せずに維持し、米沢での生活を新たに始める決断をしました。
( )のことばを答えてみよう!
- 「直江兼続」は何をした人?
- 「直江兼続」の年表(生涯)
- 「直江兼続」はどんな人物?
- 「直江兼続」の愛
- 「直江兼続」と上杉景勝の関係
- 「直江兼続」のゆかりの地
- 「直江兼続」のエピソード
- 「直江兼続」と関ケ原の戦い→今ココ
- 「直江兼続」の子孫(家系図)