「静御前」は何をした人?したことを簡単に解説
静御前は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した、白拍子です。
静御前は磯禅師の娘として生まれ、京都府京丹後市が出生地とされています。
白拍子とは、詩吟や和歌を歌いながら舞う女芸者であり、静御前はその名手として知られていました。
静御前の舞は神がかり的な力を持ち、静御前が舞うことで雨が降ったという伝説も残っています。
静御前はまた、源義経に最も愛された女性の一人であり、二人の関係は『吾妻鏡』などの歴史書に記録され、能や歌舞伎の題材としても取り上げられています。
そして源義経との悲劇的な恋愛関係でもよく知られています。
源義経は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟で、平氏を滅ぼす功績で知られる人物です。
しかし、後に源頼朝と対立し、朝敵として追われる身となります。
源義経と静御前の関係は、義経が源頼朝に追われる身となっても変わらず、義経を一途に愛し続けました。
源義経との別れの後、静御前は源頼朝に捕らえられ、鎌倉へと連れて行かれます。
鎌倉では源頼朝の前で舞を奉納することになり、この際に源義経への深い愛と悲しみを込めた歌を披露しました。
静御前の真摯な歌は、源頼朝の妻・北条政子の心を打ち、静御前の命を救うことに繋がりました。
しかし、幸せは長くは続かず、静御前が身籠っていた源義経の子は、源頼朝の命令により生後間もなく殺される運命となりました。
静御前のその後の人生については詳細が不明であり、どこでどのように人生を終えたかは謎に包まれています。
「静御前」の年表(生涯)
年代 | 出来事の概要 | 詳細な説明 |
---|---|---|
不明 | 誕生 | 生年や父親については記録がない。 |
1182年 | 雨を降らせる | 神泉苑での雨乞いで雨を降らせ、後白河法皇から賞賛される。 |
1185年 | 源義経と出会う | 京で源義経に見初められ、愛妾となる。 |
1185年 | 吉野に逃れる | 源義経と共に大物浦から船で西国へ下ろうとするが、嵐で難破。九州落ちに失敗し、吉野山へ逃れる。 |
1185年 | 鎌倉方に捕まる | 吉野で捕まり、北条時政の下へ送られる。 |
1186年 | 鎌倉に届けられる | 母・磯禅師と共に鎌倉へ送られ、北条時政の屋敷に入る。 |
1186年 | 鶴岡八幡宮で舞う | 源頼朝と北条政子の前で源義経を慕う歌と舞を披露する。 |
1186年 | 男児を出産 | 静御前は源義経の子を出産するが、男児は由比ヶ浜に沈められて殺される。 |
1186年 | 京に戻る | 母と共に京に戻る。 |
不明 | その後 | 京や嵯峨野で尼となったという説があるが、全国に墓が点在しており、この後の静御前の消息は不明。 |
「静御前」はどんな人物?わかりやすい解説とクイズ問題
静御前は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて活躍した女性で、源義経の側室としても知られています。
静御前は磯禅師の娘で、幼い頃から舞や和歌を習い、白拍子としての道を歩みました。
白拍子とは、主に男装の遊女や子供が、当時流行の歌や舞を披露する芸能者を指しています。
静御前と源義経の関係は深く、義経が京都に帰還した1184年に二人は関係を深め、静御前は後に義経と共に逃亡生活を送ることになります。
しかし、静御前は1185年に源義経と別れることとなりました。
その後は鎌倉で源義経の異母兄である源頼朝の厳しい尋問に耐えながらも、義経の居場所を決して話さなかったといわれています。
しかし、静御前に最大の悲劇が起こり、源義経との間に生まれた男の子が、源頼朝の命令により命を奪われました。
その後、母である磯禅師と共に京に帰されましたが、その後の足取りは明らかではありません。
静御前はどんな人物クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
静御前は誰の側室でしょうか?
- A. 源義経
- B. 源義門
- C. 源頼家
- D. 源義朝
【穴埋めクイズ問題】
静御前は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて生きた女性で、( ① )の娘として育ち、( ② )として舞や和歌を披露しました。源義経の側室として深い関係を築き、義経の逃亡生活を共にしました。1185年に義経と別れた後、鎌倉では( ③ )の尋問に耐え、義経の居場所を守り抜きました。しかし、静御前と義経の間に生まれた男の子は、( ③ )の命令により命を奪われました。その後、( ① )と共に京に戻されましたが、その後の足取りは不明です。
( )のことばを答えてみよう!
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