「北条政子」の死因とは?わかりやすい解説とクイズ問題
「北条政子」の死因について、わかりやすく解説をのせてるよ。解説を読んだあとには、どの程度理解できたかチェックするために4択クイズと穴埋めクイズに挑戦してみよう♪
北条政子の死因についての詳細は、将軍と幕府の歴史を鎌倉幕府が記した「吾妻鏡」などの史料に記載されているものの、具体的な病名まではわかっていません。
北条政子は1225年5月29日に病床に伏し、その後、一時的に回復を見せたものの、状態は再び悪化しました。
逆修(逆修:生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること)を行ったことも記されており、その約1か月後には危篤状態におちいりました。
治療には和気家から和気定基、丹波家からは丹波頼経があたりましたが、丹波頼経は治療の途中で辞退しています。
その後、和気定基が主治医として治療を続けましたが、北条政子は亡くなってしまいました。
北条政子が具体的にどの病気で亡くなったのかは分かっていませんが、病気による病死であることは確かです。
一説には、北条政子と同時期に亡くなった大江広元の死因が赤痢であったことから、北条政子の死因も赤痢によるものと推測されています。
当時、鎌倉では疫病が流行しており、北条政子が赤痢菌に感染した可能性は否定できません。
北条政子の死因クイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
北条政子の死因の詳細が書かれている史料は何でしょうか?
この史料は鎌倉幕府が幕府の歴代将軍を軸に記しています。
- A. 吾妻鏡
- B. 後鏡
- C. 本朝通鑑
- D. 大日本史
正解はA. 吾妻鏡
【穴埋めクイズ問題】
北条政子は1225年5月29日に病に倒れ、逆修という仏事を行った後に亡くなりました。政子の死因についての詳細は、「( ① )」などの史料に記載されていますが、具体的な病名は不明です。しかし、病気が死因であることは確かです。治療には和気定基と丹波頼経が関わりました。北条政子と同時期に( ② )で亡くなった( ③ )の事例や、当時鎌倉で流行していた疫病を考慮すると、北条政子が( ② )で亡くなった可能性も考えられています。
( )のことばを答えてみよう!
①吾妻鏡
②赤痢
③大江広元
北条政子の歴史クイズ(索引)