「楠木正成」の有名な戦いとは?わかりやすい解説とクイズ問題
楠木正成は、鎌倉時代末期に活躍した武将で、後醍醐天皇の倒幕運動に協力して数々の戦いを起こしたことで知られています。
特に、下赤坂城の戦いと千早城の戦いは、楠木正成の有名な戦いとして名高いです。
下赤坂城の戦いでは、鎌倉幕府軍が後醍醐天皇が隠れているとみなされた笠置山を攻略後、楠木正成が守る下赤坂城を目指しました。
ここでは、楠木正成軍の兵はわずか500に対し、幕府軍は30万という圧倒的不利な状況でしたが、正成は崖に囲まれた地形を活かし、待ち伏せていた弓兵200で櫓から弓矢で一斉に幕府軍を奇襲しました。
そして城壁をよじ登る幕府軍を、二重塀の仕掛けや上からの落石、熱湯や糞尿攻撃で撃退しました。
その後、幕府軍が休息中には、東西からの奇襲攻撃を仕掛け、敵を翻弄しました。
圧倒的な劣勢を跳ね返す奇策で、幕府軍を撃退しますが、幕府軍は兵糧攻め(食料が無くなり相手の戦闘力を弱めたところを攻め込んだり、相手に降参させる)の作戦に変更しました。
これに対し、下赤坂城の造りでは長期的に籠城できないと悟った楠木正成は、敵の亡骸を使って自害したように見せかけて、敵に気づかれないように下赤坂城に火をつけ逃亡する作戦を実行しました。
千早城の戦いでは、1333年に再び幕府軍と楠木正成軍が対峙しました。
楠木正成が自害したと思っていた幕府軍ですが、正成は下赤坂城を奪い返し、復活します。
戦いの舞台となった千早城は、四方を深い谷に囲まれた天然の要塞であり、幕府軍は20万から100万とも言われる大軍で攻め込みましたが、楠木正成はわずか1,000の兵で迎え撃ちました。
この戦いで、楠木正成は櫓からの落石攻撃や弓矢で襲撃します。
千早城は山の上にあるので水源がないだろうと幕府軍は考え、近くの水源を絶ち、楠木正成軍が自滅するのを待ちましたが、すでに正成は自軍が使用できる別の水源を確保するといった先手を打つ戦術で幕府軍を翻弄しました。
さらに、楠木正成はわら人形を使った欺瞞作戦(相手に誤った認識を与える作戦)や水源で待っていた幕府軍が油断しているところを夜襲するなど、多彩な奇策を駆使し、幕府軍は打つ手が無くなり、幕府軍を撃退しました。
楠木正成の有名な戦いクイズ問題
【4択クイズ問題】
Q
楠木正成が下赤坂城で長い期間籠城できないと考えた末、行った作戦は何でしょうか?
- A. 敵の亡骸を使って自害したように見せかけ城に火を放つ
- B. 城に誰もいないように見せかけて近づいた敵を奇襲する
- C. たくさんの人形を城壁に設置して数を偽装する
- D. 城からの音楽演奏で平和を装い、敵を油断させる
【穴埋めクイズ問題】
楠木正成は鎌倉時代末期に活躍した武将で、後醍醐天皇の倒幕運動に協力し、特に( ① )の戦いと( ② )の戦いで顕著な功績を残しました。( ① )の戦いでは、正成が指揮するわずか500の兵力で、幕府軍30万に立ち向かい、地形を活用した奇策や待ち伏せ、城壁をよじ登る敵に対する熱湯や糞尿攻撃で戦いました。長期的に持たないと判断した籠城戦から、敵を欺くための自害偽装と城の焼失を演出し、幕府軍を退けることに成功しました。( ② )の戦いでは、正成が再び幕府軍と対峙します。幕府軍は正成が自害したと誤認していましたが、実際には生き延びていて、下赤坂城を奪回し、千早城で幕府軍を迎え撃ちました。正成は1,000の兵で、20万から100万とされる幕府軍に立ち向かい、落石攻撃や弓矢で応戦、水源確保や夜襲など先手を打つ戦術で幕府軍を翻弄しました。( ③ )を使った欺瞞作戦も功を奏し、最終的に幕府軍を撃退しました。
( )のことばを答えてみよう!
- 「楠木正成」は何をした人?
- 「楠木正成」の年表(生涯)
- 「楠木正成」はどんな人物?
- 「楠木正成」の子孫(家系図)
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